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余市町でおこったこんな話

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北海道余市町

余市町の埋もれた歴史等を紹介し、改めて余市町を再認識するコーナーです。

~その238~『笠谷幸生さん』
※令和6年4月23日80歳にてご逝去されました。謹んでお悔やみ申上げます。

昭和30年代のはじめ、仁木中のグラウンドで野球の練習試合がありました。対戦相手は余市西中。
その試合でセカンドを守っていた選手は、今も町内にお住まいで、中2のシーズン(昭和32(1957)年)だったと記憶しています。
当時の仁木中は強豪チームで、その中でも、俊敏な動きを見せるキャッチャーがいました。
キャッチャーの名前は笠谷幸生さん。昭和47年の札幌オリンピックの70m級ジャンプの金メダリストで、金野、青地両選手とともに表彰台を独占し、日の丸飛行隊は日本中を沸かせました。
札幌オリンピックのニュース映像を見ると、「さぁ笠谷、金メダルへのジャンプ飛んだ決まった見事なジャンプ」と実況され、別の記録映像では「キャッチャーの姿勢から猫が飛び上がるような踏切」、「世界一美しい着地」と表現されています。
お兄さんで9歳上の昌生さんもジャンプの名選手で、大学卒業後に道北の羽幌炭鉱のチームに所属していました。幸生さんが仁木中学校3年の時には昌生さんに連れられて羽幌炭鉱の合宿に参加し、大人顔負けのジャンプを披露したので、お兄さんに続いて神童が現れたと言われたそうです。
入部したスキー部は上級生に全日本クラスの猛者が多く、そこで切磋琢磨した幸生さんは2年生以降、頭角をあらわして、国内外での大会で目覚ましい成績をのこすようになりました。
明治大学進学後はインスブルックオリンピック(昭和39年、オーストリア)、ニッカウヰスキー入社後はグルノーブルオリンピック(昭和43年、フランス)に出場します。その後、世界選手権などで徐々に成績を伸ばして、昭和47年の札幌オリンピックでの活躍につながります。
幸生さんがニッカウヰスキーに入社する前について、竹鶴さんの回想が『ニッカウヰスキー80年史』に見えます。
「(笠谷さん親子で会社を訪れて)ぜひニッカに入社したいので、なんとかお願いしますとのことであった。当時ニッカには、ジャンパーは一人もいなかった。私は笠谷親子に、北海道にはジャンプで有名な企業や銀行があるので、そういう仲間環境に恵まれた会社の方がよいのではないかと再三すすめたが、どうしてもということでニッカに入ってきた。」
幸生さんは、札幌オリンピック終了後、会社にもどり大会の報告をしました。ニッカ正門の上にある貴賓室には竹鶴さんはじめ、地元スキー連盟の役員が揃いました。
「笠谷君、記念になるものを何かのこさなくていいのか」
竹鶴さんがそう尋ねましたが、幸生さんはニコニコとしていただけだったそうです。
その後、ほどなくして桜ケ丘シャンツェにあった30m級のジャンプ台(後の竹鶴シャンツェ)に隣接して20m級のジャンプ台が建設され、笠谷シャンツェと名付けられ、笠谷さんのお名前を冠したジャンプ大会も始まりました。
「当社も余市地方のジャンパーの底辺拡大を図るという趣旨に賛同し、笠谷シャンツェの建設に協力した」と前掲書にあります。
幸生さんは大会のたびに駆け付けました。会場に到着すると、雪面を整備する道具を持ってランディングバーンの下の方、クニックと呼ばれる場所にいつも立ちました。そこは斜度が急に変わるので、着地した選手が転びやすい場所でした。
また大会で選手たちにあいさつする機会があると、「ジャンプの練習は日常生活(の中で、椅子から立ち上がる時など)にあるんだよ。」、「ジャンプは遊び。余暇にやっていることなんだから、学校の勉強を一生懸命やるんだよ。」と言葉をかけてくれたそうです。

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