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広島県竹原市との広報誌交流(第1回)~歴史と文化財でコミュニケーション~

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北海道余市町

余市町は令和5年10月に広島県竹原市と交流都市提携を締結しました。両市町の交流を促進するため、広報誌でそれぞれの歴史・文化財を紹介していきます。第1回は竹原市の歴史と文化財を紹介してもらいます。

竹原市は、広島県の南部、瀬戸内海沿岸の中央部に位置しています。四季を通じて大きな寒暖差はなく、積雪はほとんどありません。
現在の竹原市周辺は、古代には「都宇郷(つうごう)」と呼ばれていました。「竹原」という地名は、平安時代に京都下鴨神社の荘園となり、「都宇・竹原荘」と呼ばれるようになったことに始まります。そして、鎌倉時代に地頭として竹原にやって来たのが小早川氏です。小早川氏の本家から分かれた竹原小早川家は、市内北部の新庄町にある木村城(県史跡)を拠点に瀬戸内海沿岸部へ勢力を広げました。しかし、竹原小早川家は戦国時代に跡継ぎが途絶えてしまいました。その時に竹原小早川家に迎えられたのが毛利元就の三男・隆景です。小早川隆景は、その後小早川氏本家も継ぎ、毛利家を支えていきました。市内南西部の吉名町にある光海神社には、隆景が奉納した「吉名八幡宮法楽連歌」(市重要文化財)が残っています。
さて、竹原市には国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている、通称「町並み保存地区」があります。この町並みが繁栄する要因となった一つが、塩づくりです。
江戸時代前半の竹原では、海を埋め立てて土地を造成し、その土地で農作物を作ろうとしました。しかし、元々海だった土地は塩気が強く、うまく農作物が育ちませんでした。その時、現在の兵庫県赤穂から「入浜式塩田」という塩づくりの技術が伝わったのです。入浜式塩田とは、瀬戸内海の特徴である海水の満ち引きの大きさを利用した塩づくりの技術です。潮が満ちている時に海水を引き込むことで、効率的に大量の塩を生産できるのです。竹原ではこの技術の導入に成功し、その後良質で大量の塩が生産されるようになったのです。竹原で生産された塩は、北前船などによって日本海側の各地に運ばれ、幕末・明治初期には余市町にも竹原塩が運ばれていたようです。
こうした塩づくりをはじめ、酒造業などの様々な商売で成功した竹原の商人たちは、春風館頼家住宅、復古館頼家住宅(いずれも国重要文化財)に代表されるような、良質な材料を使って技巧を凝らした豪邸を建てていきました。
竹原では、昭和30年代に製塩業が廃止となりましたが、塩田の跡地が中心市街地として開発されたことで、江戸時代以来の町の中心だった町並み保存地区は再開発を免れました。江戸時代から昭和戦前までに建てられた建物が現在まで多く残っており、市民や観光客の皆さんから親しまれています。(竹原市教育委員会 文化生涯学習課 文化財保護係)

問合せ:社会教育課文化財係
【電話】22-6187

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