余市町の埋もれた歴史等を紹介し、改めて余市町を再認識するコーナーです。
~その239~『七夕』
七夕の行事を見かけることは少なくなりました。大川町方面で昭和50年代にやっていたという方もいますが、沢町方面ではもっと昔にさかのぼらないと記憶のある方は少ないようです。七夕の習慣は道南の一部を除いた北海道の多くの地域でお盆の少し前、8月7日に行われました。
笹の葉さらさら のきばに揺れる
お星さまきらきら 金銀すなご
道南ではアオネザサやネマガリダケ(チシマザサ)に短冊を飾っていたので、この唄のように笹の葉が「のきば」(軒の端)に揺れるのを見られます。短冊には、金銀の粉がちりばめられ、織姫と彦星を隔てていた天の川の星に見立てていました。
短冊を飾れるほどの大きさのネマガリダケがない(または少ない)、道南以外の地域では柳の木を切ってきて、玄関先に立てます。短冊にお願いごとを書くのは、裁縫の上達を祈願する日本古来の棚機津女(たなばたつめ)の信仰がもとになったと言われています。
七夕が終わるとその木は、翌日の早朝あるいは午前中に捨てられます。けがれを祓う意味があると言われています(『北海道の年中行事』)。
子どもたちは近所の家々の玄関先で声を揃えてローソクを求める唄をうたい、ローソクの他、お菓子をくれる家もありました。
他の町の記録を見ると、道南の知内町では「竹に短冊、七夕祭り、オイヤイヤヨ、ろうそく一本ちょうだいな、けねばかっちゃくぞ」と唱え、道北の小平町では「今年は豊年たなばた祭よ、オーイヤイヤヨ、ローソク出せ、出せよ、出せねば掻っちゃくぞ、しまいに喰いつくど」、小樽では「今年豊年七夕祭、ろうそく出せ、出せよ、出さねば、ひっかくぞ、くっつくぞ、商売繁盛、出せ、出せ、だせよ」と唄いました。
江戸時代の松前では、七夕祭りが一年おきに行われていて、角型の灯籠を持った子どもたちが練り歩き、翌日には灯籠を海に投げて祝ったという記録がのこっていて、これを「ねふた流し」と呼んでいたとあるので、七夕の習慣は青森県内のねぶた(ねぷた)のお祭りと同じルーツとする指摘があります(『新・知内町史』)。
昭和7、8年頃の余市町の七夕の様子が次のように記録されています。
「子供達が三々五々手製の繪行燈(あんどん)や小提灯(ちょうちん)を持って「今年豊年七夕祭蝋燭出せ出せ」と唄ひ乍ら蝋燭(ろうそく)を貰ひ町を練り歩くのは段々滅びて来た。」(『余市町郷土誌』)
また同書では「大川町方面にては指揮者の下に各自思ひ思ひの提灯を持て大道を唱歌を歌ひ乍ら町を蜒々練り歩くやうになった」とあります。この頃にすたれてきつつあった七夕の習慣を、再び盛り上げようとした大川町のどなたかが先導して唱歌をうたいながら練り歩くようになったのかもしれません。
昭和40年代後半、子どもを迎える家では、ろうそくのかわりに「こんぺいとう」をくれた家もあったそうです。
戦中に沢町で生まれた方は、ヤナギの木に短冊や飾りを吊り下げた経験をお持ちでしたが、家々を回ることはしなかったと教えてくれました。
7月から8月は天の川を仰ぎ見るにはよい季節です。
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