余市町の埋もれた歴史等を紹介し、改めて余市町を再認識するコーナーです。
~その241~『サクランボ』
サクランボは漢字で書くと桜坊でしょうか、桜桃でしょうか。桜桃はオウトウとも読み、オウトウは江戸時代に中国から移入されたユスラウメ(バラ科の落葉低木)のことを指していました。その後、明治時代になって、日本に移入された西洋実桜(実を食べる桜)の木を桜桃(オウトウ)と呼ぶようになり、その実も桜桃として流通しました。
北海道に果実栽培を導入した開拓使は、明治5(1872)年、ケプロンの主導によりアメリカから果樹の苗を輸入しました。その中にオウトウもあって、25品種が持ち込まれました。
これに先立つ明治元年には、ガルトネルにより開かれた七重(七飯)の農場に、彼の出身地プロシアからのオウトウ6本が移植されましたが、気候にあわなかったのか、栽培は軌道にのらなかったようです。
開拓使が移入した苗木は明治5年に設置された東京官園で600本、翌6年も同じく600本ほどが栽植されて明治8年にはその中から5品種が結実しました。
余市町にオウトウが持ち込まれたのは、明治7年ころと言われていますが、もう少し後かもしれません。
明治31年の作付面積は1反(約990平方メートル)、収穫高が1,260斤(約750kg)でした。大正時代に入ってからのオウトウの木の本数は、大正元年に1,005本、同6年には2,599本と増えています。
北大余市果樹園で活躍した、初代の園芸学講座担当の星野勇三先生は園芸雑誌に、オウトウについて、「苹果と共に輸入せられ各地に栽培せられたるもので本道の風土には極めて好適して居り、結果多く病虫害等の恐るべき者は無く、重要果樹中栽培の容易なる者の一つであるが、其栽培のあまり増大せぬのは必竟貯蔵及び運搬に堪えぬ為め少しく多く栽培すれば忽ち販路に苦しむと云ふ心配から栽培家が余り手を出さぬのに困るのだろう。(…中略…)そんなに販路を遠きに求めずとも、札幌とか小樽とか言ふ都会附近では、まだゝ栽培を多くしてよい様に思ふ、何となれば現今札幌附近などで果樹中最も収益の多きものは桜桃であることは否定能はぬ現象であるからである。」と書かれています。
時代は下って昭和50年代に入ると、果樹栽培の中心だったデリシャス系リンゴを中心とした価格が低迷したことと、東京市場への空輸が可能になったことでオウトウの栽培面積を拡大させるために先進地の山形県に学ぼうという声が大きくなりました。
昭和58年頃からは雨をよけるビニール製の雨よけが設けられるようになったことも追い風になりました。
平成10年代に栽培されていた品種は、佐藤錦、北光(水門)、南陽、高砂、ゴールドキング、日の出、ナポレオン、セネカ、黄玉、ゴールドスウィートチェリー、養老といった品種で、今ではなじみのないものもあります。
写真のラベルは、明治36年に設立された余市町購買販売組合の駅売り製品のラベルです。同組合は明治43年に余市停車場構内に売店を置いて、呼び売り営業を行っていました。「左くらんぼ」の文字と手提げのついた編みカゴとサクランボのイラストが見えます。「定価金二十銭」とありますが、どれくらい入っていたのかは不明です。
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