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広島県竹原市との広報誌交流(第3回)~歴史と文化財でコミュニケーション~

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北海道余市町

余市町が交流都市提携を締結している広島県竹原市との交流を促進するため、広報誌でそれぞれの歴史・文化財を紹介しています。第3回は竹原の酒造りと竹鶴政孝(たけつるまさたか)について竹原市教育委員会の学芸員の方に紹介していただきます。
竹原市では製塩業だけでなく、酒造業も盛んに行われました。竹原周辺の農村から多くの人が塩田で働くために集まりましたが、製塩業は天気が良く気温が高い夏場の仕事なので、冬場には働き手が余ります。そこで、冬場から仕込みが行われる酒造業に多くの人が携わるようになりました。
江戸時代、大量の米を使用して造る酒は藩の厳しい統制下にありましたが、竹原には寛永11(1634)年頃に10軒の造り酒屋があり、製塩業が始まる前から酒造業が行われていました。また、町並み保存地区には、天和3(1683)年に造られた酒造用の井戸が残っています。明治時代になり、県外からの酒が入ってくるようになると、醸造技術に関する研究も進み、竹原では大正15(1926)年時点で酒造場が26軒となり、銘醸地として全国に知られました。
現在は、享保18(1733)年創業の竹鶴酒造、文久3(1863)年創業の藤井酒造、明治4(1871)年創業の中尾醸造の3蔵が、伝統の技術を高め継承しながら質の高い酒造りを続けています。
この酒造業の盛んな竹原に、明治27(1894)年に生まれたのが、後に余市町でニッカウヰスキー株式会社を設立することになる竹鶴政孝です。政孝の父は、竹鶴酒造の分家からさらに分家した家を興しましたが、本家の当主が早世したため、本家で酒造りをしていました。父の酒造りにかけるひた向きな姿勢は、政孝のウイスキー造りにも受け継がれました。
忠海中学校(現在の広島県立忠海高校)に通った政孝は柔道部に入りました。後に内閣総理大臣として「所得倍増計画」を掲げた池田勇人(いけだはやと)は柔道部の後輩で、「竹刀を持って部屋を見まわりにくる、柔道の強かった寮長さんの竹鶴さんは、おそろしかったなあ」と回顧しています。大臣になった池田勇人は、各国代表を招いた総会の席でニッカウヰスキーを振る舞ったそうです。
竹鶴本家13代目の壽夫(ひさお)は、父親と政孝がふたいとこの関係にあり、壽夫の父親が早世したため、政孝が壽夫の父親代わりとして結婚式で親族代表の挨拶をしました。壽夫が政孝と広島市内の寿司屋を訪れた際、政孝はお品書きを見て「ウイスキーとはけしからん」と怒ったそうです。「寿司には日本酒が一番合う。自分がウイスキーを造っているからといって、寿司はウイスキーではなく、日本酒で味わうものだ。」そういった食への強いこだわりがあったようです。政孝は晩春から初夏に竹原に帰省した際、北海道では手に入りにくかったイチジクやソラマメを食べたがったそうです。その時、その場所でもっともおいしい地物を食べる。政孝の食へのこだわりが伺えます。
(竹原市教育委員会 文化生涯学習課 文化財保護係)

問合せ:社会教育課文化財係
【電話】22-6187

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