●看護師として、娘として
「お母さんが外で倒れていて、冷たくなっていて、様子がおかしいの、見に来て……」
気温7℃の寒い雨の朝だった。救急待機勤務で自宅にいた私は、すぐに実家へ行く。実家に向かうまでに最悪な状態を考えていた。着くと、弟に抱きかかえられていた母は、顔面蒼白、呼びかけても開眼せず。脈を測ると徐脈で30前後、最初は意識があったというが、話しかけている間に意識がなくなった。弟夫婦に救急車を呼ぶようにお願いし、私は病院へ向かい受け入れの準備を行った。救急車が到着するまでの間に、弟二人に電話を掛けた。「病状によって意識が戻らないようなことになったら話し合っていた通り延命治療はしないということでいいよね……」と話した。二人とも「それでいいよ」と答えてくれた。病院へ搬入した母を当直医師と、夜勤の看護師、レントゲン技師、臨床検査技師と共に初期診断やケアを行った。時間の経過と共に、日勤の看護師も一緒にケアを行ってくれた。チームワークは最高、でも母の状態は最悪、33℃の低体温、血圧低下、徐脈、不整脈、強度の貧血、CTで脳出血はないが超急性期の脳梗塞はCTでは診断できない。医師は名寄市立病院医師に相談し搬送する事となった。搬送中、電気毛布や暖めた点滴を実施しても冷え切った身体は、どこに触れても冷たく、中々温まらなかった。救急車の中で亡くなった祖母と父に『もう少しだけ、お母さんをこの世界から連れていかないで、もう少しだけ一緒の時間を下さい』とお願いをした。私が故郷、天塩に戻ってきて12年、それだけの時間を過ごしてきたのに、親孝行は全然できていない、だから、もう少しだけでいいから娘として、母と笑って一緒の時間を過ごし感謝の言葉をちゃんと伝えたい。身勝手なのは十分わかってはいるけれど……。救急車の中での私は看護師であり、娘であり、この時の私はどちらだったのだろう。
名寄市立病院に到着し担当医から「いろんな病気が考えられるが、まずは心臓梗塞の疑いがあるから検査治療をすすめていく」とのこと。結局、右側の心臓の血管が詰まり、広範囲の心筋梗塞を起こしていると診断された。治療として、細くなった血管をバルーンで膨らませ、ステントを入れる治療が行われた。しかし、夜間に「心臓が何度か止まり、蘇生したが、このままでは持たないから、一時的に体外式ペースメーカを入れたいと思うが……」と医師から電話があった。医師にお願いする以外、何もできない。祈ることしかできなかった。それから、小康状態が続き、入院4日目、顔や身体は浮腫みがひどく、腕には真っ黒な皮下出血がありまだ、様々なチューブが身体に繋がっていた。痛々しかった。でも、少しだけ目が開いた、内容はともかく喋られるようになった。更に3日後、ICUから循環器の病棟に転室。面会すると母は、ふた回りほど小さくなって、83歳のお婆ちゃんの姿になっていた。悲しかった、泣きそうになった。でも我慢した。身体機能の低下だけではなく、認知機能低下も見られ、何度も同じ話を繰り返していた。今までなら「それ、さっきも言ったよ。お母さん、何回も同じこと言ってる」と可愛くない娘は、攻撃していた。でも今は、母が生きていてくれることに感謝できる。同じことを母が言ったとしても、これからは「そうだね」と優しく応えようと決めた。その後、少しだけ私自身の心も落ち着き、妹に『佐々木家女子LINE(仮)』の携帯のグループLINEを作成してもらった。お互いに情報共有し、母の状態や今後のこと、介護のことなどを話し合っていくことにした。その中には「退院出来たら、家族写真を撮ろう! お揃いのTシャツ作る? 長女ですとか、次男の嫁ですとかシャツにデザインするとか」などと笑うこともできた。与えてもらった母との時間を『今日が最後の日かもしれない』と覚悟を持って、後悔しないよう看護師として、娘として、母と過ごしていきたいと思っている。
(看護師 佐々木千代子)
お問い合せ先:天塩町立国民健康保険病院
【電話】(2)1058
<この記事についてアンケートにご協力ください。>