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青苗遺跡で発見された勾玉などの玉類と埋葬された人物像について[後編]

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北海道奥尻町

前号に引き続き、「勾玉総括プロジェクト」の結果を紹介します。青苗遺跡の墳墓の構造、埋められた年代や人物像については、先生方の間で見解が分かれました。論点を整理してみます。

■墓の構造
・墳墓は扁平な山石や珪化木(木の化石)などで囲われた長径4mの大きさ。
・掘り込みは無く、長方形の石組の間に埋葬し、盛土されたと思われる。
・埋葬人骨は西頭位の伸展葬で、頭蓋骨と下肢骨の一部が残っていた(今は現存せず)。
・このような埋葬方法は擦文文化には例がみられない。
・副葬品の玉類のうち、ガラス玉と水晶丸切子玉、水晶丸玉は熱を受けて変形、ヒビ割れしていることから、中国大陸方面に影響された火葬もしくは着火儀礼を施した可能性が想定される。
・ただし、大刀と勾玉は明確な被熱の痕跡が認められず、周辺から炭化物検出の記述がないことから、火葬墓であるとは断定できない面も指摘できる。

■埋められた年代
時期については、墳墓の埋葬年代が8世紀説と11世紀説に見解が大きく分かれました。先に見解を整理すると、玉類や大刀といった副葬品である遺物の年代を根拠にすると8世紀説が有力であるものの、周辺の土の堆積状況と、類似する石組遺構の存在を考えると、11世紀説も可能性が出てきます。

○8世紀説
・玉類の分析から、東北地方との交易で入手した伝世品の勾玉などとともに8世紀に埋葬された。
・鉄の大刀の年代観(7世紀後葉を中心とした前後1世紀)と玉類の年代観(8世紀頃の水晶丸玉を含む)とは概ね一致する。

○11世紀説
・墳墓の付近からは、構造が似た石組が発見され、その下から鉄滓(製鉄、鍛冶の残りかす)とアシカの骨がみつかっている。周辺からは鉄滓とアシカの骨とともに11世紀頃の土器が大量に出ていることから、似た構造である墳墓は11世紀造営の可能性がある。
・土層を観察すると、墳墓から間隔を置かずに17世紀降下の駒ヶ岳d火山灰が堆積している点からみて、8世紀の埋葬には疑問があり、周辺で出ている遺物年代と共通する11世紀の可能性がある。
・年代の判定には周辺を再調査し、詳しい土層観察を必要とする。

■人物像
埋葬された人物像(被葬者)はオホーツク文化人と擦文文化人に見解が分かれ、その性格についていくつかの想定がなされました。

○オホーツク文化人説
・被葬者は8世紀代の島に住むオホーツク文化人で、ユーラシア大陸の埋葬風習に通じる着火儀礼を取り入れた葬送で葬られた。上京朝貢や渤海使に同行するなどして平城京などの都に行く機会があり、とても稀少な水晶丸玉を入手できた人物。

○擦文文化人説
・被葬者は8世紀代の島に住む地元有力者で、7世紀以降に島に勢力を伸ばしてきた擦文文化人であり、本州古墳文化の影響を受けた埋葬方法で葬られた。北方進出する律令国家に対して海洋活動による交易を通じて経済力と地位を高めた人物。
・被葬者は11世紀代の島に住む地元首長で、鉄精錬や鉄製品の生産を統括し、流通を担った擦文文化人であり、ユーラシア大陸東部に由来するような着火儀礼で葬られた。鉄製品の見返りに毛皮やワシ・タカの羽根などを受け取り北東北の集団と交易を行った人物。

教育委員会では、奥尻島津波館を7月10日(月)~14日(金)まで無料開放します。また、館内では「震災30年特別展示」として、震災当時にチャリティーライブをしてくれた泉谷しげるさんの活動に関する展示物を設けます。是非ご覧ください。

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