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市制施行80周年受け継がれる想(おも)い

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北海道岩見沢市

岩見沢は今年、開庁140年、市制施行80周年を迎えます。これを記念し、岩見沢のこれまでのあゆみや岩見沢に関わりの深い人、出来事などを紹介します。

■第3回北村の由来北村雄治(きたむらゆうじ)とその兄弟
北村の地名は、開拓者の北村雄治の苗字をとったものです。雄治は、山梨県中巨摩(なかこま)郡鏡中條(かがみなかじょう)村(現南アルプス市)の酒造業の家で育ちましたが、父の急逝や酒蔵の火災、輸入酒の流通などから家業の継続を断念。漢学の師芳野世経(よしのつぐつね)らに相談し、明治27年、山梨県から移民約130人とともに岩見沢村狐森(現北村豊里)に入植、農場を開設しました。続いて弟の北村黽(びん)、北村謹(きん)らが入植し、甲州財閥の根津嘉一郎(ねづかいちろう)らに支えられながら、結核を患った兄に代わって農場を継承しました。農場一帯は人口が増え、施設も整ってきたことから、明治31年の大洪水の復旧の際に自立の機運が高まり、明治33年7月に岩見沢村から独立、北村が誕生しました。黽は、戸長(こちょう)として村政に当たるとともに外国製ポンプを使った揚水灌漑や全国に先駆けた緬羊(めんよう)畜産組合の設立、純国産ホームスパン縫製、羊肉料理にも取り組みました。また、学校校舎整備のほか北村信用組合による女子青年教育を推進。大正15年からは北海土功組合の経営に関わり、昭和6年から9年にかけて小作人に農地を開放し、雄治の遺訓を実行しました。謹は、大正3年に分家して北村牧場を開き、ホルスタイン種の飼育を普及、乳製品など農業の多角経営に取り組みました。また、謹に嫁いだ智恵(ちえ)は元小学校教師の才女で、北村豊里の鏡沼には智恵の同僚だった歌人石川啄木が彼女について詠んだ歌碑があります。
新天地開拓に戸主として踏み出した雄治は32歳で早逝しましたが、事業を守成した弟の黽と謹が北海道開拓の夢を実現しました。それぞれのつとめを果たした兄弟の企業家精神は、明日への希望を与えてくれます。

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