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自治体の皆さまへ

“あの日”と”いま”を繋ぐ―村民おもいでリレーNo.9-

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北海道新篠津村

■皆に感謝を込めて
袋達布
手塚 征輝さん(84)

◆決意した少年期
私は昭和15年10月、新篠津村の隣町、北村で生まれました。今年で84歳になりますね。もうそんなに歳をとったかと今つくづく実感しています。実家は米農家で、男4人女1人の5人兄弟の三男です。当時は米農家が珍しかったものです。先立って挑戦する、そんな両親の一生懸命働く背中を見て、私は幼少期を北村にて過ごしました。
転機が訪れたのは私が中学生の時。実家の農耕馬の面倒を見に定期的に来てくれてる獣医さんがいました。その獣医と私の父が雑談をしていて、獣医がこんな話を。「仕事が好きで、熱心な想い。農家さんはそんな人が多い。本当に素敵ですね」と。それを小耳に挟み、私は当時何を思ったのか、心を動かされ農家になることを決意しました。
そして、中学校を卒業し、16歳になる年に母の実家があった新篠津村の袋達布に移住しました。そこでは私の叔父が米農家をしていまして、まだ未熟だった私の面倒を見てくれましたね。袋達布は村の他の地区に比べて土が違うので、他よりだいぶ早くから米を育てていました。そうそう、当時は高倉の方にも畑を持っていまして、これが遠くて大変。夜中に家を出て、馬に乗って現地に向かう。そして、朝日が見えたら作業を始める。そんな生活もしていましたが、毎日疲労困憊でしたよ。

◆人に支えられ
私は北村から来ましたから、近くに友達もいなくて、村の人を覚えるのには時間がかかりましたね。その時も青年団の活動はありましたが、私の遠慮しがちな性格もあり、あまり参加できずにいました。それでも、昔から袋達布と下達布の関係が深いこともあり、移住した当初から下達布の人たちには声をかけてもらって、本当に仲良くしてもらいました。
若い頃、農作業中にトラクターがひっくり返って下敷きになったこともありましたね(笑)今では笑い話ですが、生きていることが不思議ですよ。運転席の隙間に上手く入り込み、周りに偶然人がいたもので、幸い助けられました。あの恐怖は今でも鮮明に記憶に残っていますね。
そんな慌ただしく月日が流れる中、20代も終わる頃に今の妻とも出会いました。子どもは3人。今でもたまに会いに来てくれますよ。

◆感謝を込めて
今まで私は村の農業委員など色々な仕事に就かせていただき、多くの村民にお世話になりました。自分に務められるかと何度も考えましたが、色々な方に支えられ、たくさんの出会いがあり感謝でいっぱいです。そんな繋がりから、お酒を楽しむ集まりなど今でも呼んでいただいて、こんなに幸せだとは昔の自分からは想像がつかなかったですね。
農業は今も夫婦で続けてますよ。大きな病気に罹ったことがないのが私の取り柄。運転もしますし、体が健康な限りは続けたいですね。大層なお話はできませんでしたが、まとめるのが大変だと思うのでこのくらいにしましょうか。ありがとうございました。

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