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“あの日”と”いま”を繋ぐ―村民おもいでリレーNo.8-

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北海道新篠津村

■人生山あり谷あり
東明
伊藤 美津枝さん(89)

◆各地転々と
私は昭和10年5月、積雪寒冷が甚だしい気候風土が特徴の樺太にて生まれました。私が生まれたときはまだ樺太は日本の領土。戦時下だったので時に銃声が聞こえたものです。当時の樺太は漁業や農業、採掘業や製紙業など色々な産業が盛んでしたね。それもあって、私の父は王子製紙に務めていました。
それから、戦争も終わり移住することになりまして、父の仕事の関係で苫小牧市にするか、また別の場所にするか両親は悩んでましたね。結局、父の希望でこれまた潮風薫るまち、道南の知内町に移住しました。ここでの生活はあまり思い出せません(笑)取材していただいたのにごめんなさいね。でも、それくらい両親が私を何不自由なく育ててくれたのかもしれませんね。

◆縁を繋いで
20代も終わる頃、私は仕事を求め札幌市に移住しました。札幌では板前料理の仕事をしたり色々な業種の仕事をしましたね。がむしゃらに働いて気が付けば35歳。新篠津の近くに住んでいた叔父を頼りに、そして縁があって新篠津石油販売(株)に務めました。そこで夫とも出会い、小さなガソリンスタンドを夫婦二人三脚で時に無休で頑張りました。最初はお手伝いのつもりで働いていたのに、こんな長続きするとはね(笑)本当にびっくり。
そうそう、私が村に来たとき、お店の周りには消防や商店、飲食店もあって賑わってたね。会社の経営が傾いた時は、私のことを心配してくれて「店を閉めるか」と何度夫に言われたことやら。「やるだけやって、ダメならその時」。私はそんな性格ですから、村の商工協同組合の支えもあり苦難を夫婦で乗り越えてきました。夫が20年前に他界した時も、私も高齢だったので営業を続けるか本当に迷いました。その時は従業員に「伊藤さんは100歳まで生きるんだから!頑張ろうよ」って言われちゃってね。本当に周りの人に支えられ今に至ります。感謝しかありません。

◆いつまでも生き生きと
今でも会社の事務所には顔を出してますよ。仕事は今でもしたいと思いますが、やらせてくれなくてね(笑)それでもお陰様で、すこやかクリニックやコンビニまで杖を使わず歩きで往復してますよ。これまた「怪我しないでよ」って言われちゃうけどね。
このくらいにしましょうか。私の足跡が皆にばれてしまうのは恥ずかしいからね。ありがとうございました。

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