■「歌志内から小樽、室蘭へ」
歌志内の炭坑の歴史は明治23年(1890年)にまでさかのぼります。その翌年明治24年にはもう歌志内線が開通しているのです。手宮―札幌間を結ぶ官営幌内鉄道に次ぐ北海道内では2番目に開通した鉄道が歌志内線です。まだ北海道開拓初期の時代、どれだけの困難とともに近代化が猛スピードで進められたか、想像することができます。
なぜこんなにも急いで歌志内線が敷設されたのでしょう?それはもちろん、歌志内の炭坑で掘り出した石炭を当時の石炭積み出し港、小樽に運ぶため。そして製鉄所があった室蘭へも石炭は鉄道で運ばれました。炭鉱で掘った石「炭」を、「鉄」道で運ぶ。さらに本州に向けて「港」から日本各地に運ぶ。また、製「鉄」のためにも石炭が運ばれる。歴史をたどっていくと、まさに「炭・鉄・港」の連携が明治時代の日本の急速な近代化を支えたことがわかって来ます。歌志内、砂川、岩見沢、小樽、室蘭-各都市を線でつなぐ鉄道網、さらに港から本州へと広がるそのネットワーク。その原点にあるのが炭鉱まち歌志内なのです。
明治時代初期に良質な石炭を求めて空知地方の地質調査をしたアメリカの鉱物学者ライマンが空知地方の石炭を発見したと言われていますが、実際にくわしい調査に当たったのはライマンの助手であった坂市太郎(ばんいちたろう)と山内徳三郎(やまのうちとくさぶろう)という人です。当時の「オタウシナイ」(歌志内)を調査した報告書を読むと、「オタウシナイ川」をさかのぼり、「ルークシオタウシナイ」(呂久志・歌志内)「サクシオタウシナイ」(佐久志・歌志内)など、現在も残る上歌地区の地名が出てきます。そして、このあたりの石炭が「炭質ハ全テ美良ニシテ‥」とあり、日本中探しても質、量、ともに最良のものではないかと明治政府に報告しています。
北海道開拓から国内の製鉄所の設置まで、たったの30年。私たちの現在の暮らしの基礎を作ったのが歌志内をはじめとする炭鉱から採掘された石炭だった、ということを忘れないでいたいですね。
〔地域おこし協力隊 石井葉子〕
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