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鰊御殿とまり ごてん 令和5年11月号

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北海道泊村

■宝箱のような建物
鰊御殿とまり 館長 増川佳子

10月に入って早々にやってきた暴風雨が色づき始めたばかりの木々の葉まで吹き飛ばしてしまい、秋から冬への季節の移ろいが加速してしまいました。日が落ちるのも早くなり、閉館時間前には館内が薄暗くなってしまいます。
特に、西側に明かり採りの窓がない武井邸客殿は、廊下の埋木細工等が見えにくくなってしまうのがとても残念です。
この武井邸客殿は、武井忠吉氏によって大正5年頃に建てられたと言われています。平成12年の武井光男氏からの聞き取りには『大正2年から6年までの4年間で完成させたと聞いています。当時は“離れ”と呼び、冠婚葬祭を中心に使用されていました。宿泊には使っていませんでした。』と記されています。
武井忠吉は、1857年(江戸時代末期)、茅沼村の初代武井忠兵衛(青森県東津軽出身)の次男として生まれました。明治26年に出版された『北海立志編』には、「少壮の時、青森に赴き、学問を修め、商業の見習いをし、その後、茅沼に戻り漁業に従事する。」と記録されています。忠吉は、漁場の経営者としての知識と実務に長けた漁夫だったということになります。明治初期に初代忠兵衛が他界し、養長女を含めた2男3女の子供達は武井家の確固たる基盤を築くため、各々が独立し事業の拡大を図ります。忠吉は20才で、泊に分家カネ中一泊武井家を創設し、鰊漁を中心に多角的な事業経営を行いました。
そして、明治の終わり頃は建網3ケ統であった鰊漁場の経営を大正期には茂岩を中心に6ケ統、樺太に12ケ統を経営するまでに拡大しました。その間には、私財を投じて茶津トンネルを完成させ、カブト岬大小10数ヶ所のトンネル建設にも地域の有力者と共に関わり、完成させています。この茶津・カブトのトンネル開通により岩内と泊方面を結ぶ貨客輸送の便が飛躍的に向上したといいます。
大正2年・3年と大豊漁に恵まれた忠吉は念願の豪華な鰊番屋(漁夫116名収容)、母屋、客殿、文庫蔵を完成させました。しかし、夢を叶えてから約10年後の大正15年、生涯を通して精力的に生きた忠吉は70年の人生を閉じました。
初代忠兵衛の意志を継ぎ、武井家の繁栄を支え続けた武井忠吉が“自分へのご褒美”として建てたのであろう客殿。忠吉自身はどのくらいの時間をここで過ごすことができたのでしょうか。客殿に入ると晩年の忠吉親方の思いを想像してしまいます。廊下・ふすま・欄間・床の間・便所・・・と、至る所に豪華な材料を使い、職人の巧みな技術で細かな細工が施した“宝箱のような建物”として武井邸客殿は今も客人達を楽しませてくれています。

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