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由仁町今昔物語(明治編)

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北海道由仁町

■不定期連載
由仁町の開拓期から近代までの歴史は由仁町史でおおまか確認できますが、もっと知りたいと思えるできごとが多くあります。
そこで、昨年から役場で保管している資料や写真に目を通し、保存すべき写真はデジタルデータ化しています。
それと並行し、有識者や古い資料写真をお持ちの方々に協力依頼し、資料収集しています。
今回、不定期連掲載ではありますが、明治編の一部を掲載します。
※明治30年代から大正時代は特に興味深いです。

▽1868年(明治元年)
夕張支線鉄橋ノ工事(滝ノ上・川端間)丸木船を操るアイヌの人

▽1886年(明治19年)由仁町開基
下夕張鉄五郎「テッピリア」アイヌ人、夕張川畔に住み、漁業や狩猟をもって生活を営む。妻と二男二女の六人家族。
古川浩平、群馬県碓水郡長を経て北海道庁所属となり勇払郡外5郡長となる。
下国皎三、月寒村より字馬追(現古川)へ入植する。

▽1892年(明治25年)
2月、これまで千歳郡マオイ、あるいは夕張郡字馬追・東馬追などと呼ばれていたユウニ一帯の名称が「由仁」に決まった。
3月1日、由仁村戸長役場が開庁される。
8月、室蘭線開通。この時の停車場は、室蘭・幌別・登別・白老・苫小牧・追分・由仁・岩見沢の8か所だった。室蘭線は1日1往復で7時間5分を要した。
10月、室蘭線の馬追村(由仁)から角田を通り山越えして夕張に至る計画だったが、追分より分岐させて夕張に向かうコースに変更。停車場は、追分・紅葉山・夕張の3か所だった。
※この時の紅葉山は由仁村だった。
12月8日、由仁村と登川村の境界を策定、東の境界をシューパロ川、西はポンアンルル川、南を夕張川、北は空知郡とする。
この当時、由仁村の南東部は、現在の夕張市の面積の半分以上を有し、胆振の安平・厚真、日高の穂別、十勝の占冠、上川の南富良野に接するほど広大な面積でした。

▽最初の由仁小学校
現在の北栄(1区)由仁川の橋のたもとにあったらしい。1902年(明治35年)由仁神社下に移転。

※次回は「札幌興農園」小川二郎編から

問合せ:地域活性課地域活性担当
【電話】0123-83-2112

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