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自治体の皆さまへ

命の大切さを学ぶ(1)

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北海道真狩村

■5月29日真狩高校「交通安全講話」にて
北海道交通事故被害者の会 気田光子さん
1979年の冬、村字社の道道岩内洞爺線でひき逃げ事故が起きました。被害者は村内に住む気田幹雄さん(当時36歳)。
警察は大型トラックによるひき逃げ事件として捜査を開始しましたが、犯人逮捕に至らず5年後に時効となりました。幹雄さんは重度の障害を負い不自由な生活を強いられたまま、事故から38年後に亡くなりました。妻の光子さんは、北海道交通事故被害者の会に参加し、事故被害者の思いを訴えてきましたが、今回、倶知安警察署真狩駐在所の依頼で、今後運転免許を取得し、責任を持つ真狩高校生を前に、時おり声を詰まらせながら、これまでの思いを語りました。

私が交通事故の話を大勢の人の前でするのはこれが初めてです。交通事故によって被害者、加害者のいずれになっても家族は悲惨であるということ、そしてこれからバイクや車のハンドルを握る皆さんに少しでも知っていただきたく、話をさせていただきます。
今から45年前、結婚10年目。主人は36歳、娘は8歳、私は30歳で妊娠4カ月でした。主人は職場の新年会から歩いて帰る途中、雪道でトラックにひき逃げされました。
昭和54年1月17日午前1時45分、倶知安警察署から電話がありました。「気田さんのご主人かと思うけど、確認してほしい」と。警察の方が家まで迎えに来てくれて、娘と2人で当時の真狩国保病院へ向かいました。病院で対面した時、主人の顔は2倍以上に腫れ上がり赤く変色し、見た目だけでは誰だか判断がつかない状況でした。着ていた服や持ち物でようやく主人だとわかりました。
頭部の損傷がひどく、医師には助かる可能性はほとんどゼロに近い。このまま静かに逝かせた方がと言われましたが、心臓が動いているのに諦められませんでした。
ほんの少しでも助かる可能性を信じて、札幌の中村記念病院へ救急搬送をしてもらいました。札幌の医師の説明でも頭部の損傷がひどくて手のつけようがない。助かる可能性は0・01%しかないと言われましたが、途中で亡くなることになってもいいからと手術をお願いしました。手術中に2度も心臓が止まりましたが、なんとか8時間の手術に耐えてくれました。
この時から私たち家族にとって見ること聞くこと、すること全てが『これが現実なのか』という生活が始まりました。命は取りとめましたが、話しかけても手を握っても何の反応もしてくれない植物人間状態が1年以上も続きました。『植物人間』初めて聞く言葉でした。そんな状態の主人と小学校3年生の娘と生後3カ月の息子を抱えて、この先のことを考えると不安で夜も眠れなくなり、夜泣きする息子にまでイライラしてしまい、死を考えるようになりました。
まだ幼い娘に「お母さん疲れた。この先やっていく自信がない。みんなで死のう」と言うと娘は「どんなことでも我慢するから、協力するから。お父さん一人でおいては行けない」と言われ、辛いのは私だけではない。改めて娘に教えられました。
泣いても1日、笑っても1日。同じ1日なら笑って暮らせる日が多くなるよう頑張ろうと話し合ってきました。今は優しい孫と、やんちゃな5歳のひ孫がいて、頑張ってきてよかったと思ってます。
主人は1年以上の植物人間状態から、薄皮を剥ぐように意識を戻し始めましたが、重度の障害者になってしまいました。リハビリのために中村記念病院を転院することになりましたが、主人が「もう病院には行きたくない、家に帰りたい」と言うので、家で介護することになりました。重度の障害のある主人を在宅で看るということに不安を感じましたが、小学校6年生になっていた娘が「私も協力する」と言ってくれ、食事からお風呂やトイレの介助、衣類の着脱、日常生活のほとんどが、娘と2人がかりでした。
主人には高次脳機能障害もありました。これは外見からは分かりにくい障害で、言葉、思考、感情や行動がコントロールできない脳の障害です。主人も漢字はある程度書けますが、ひら仮名やカタカナはほとんど書けませんでした。とても穏やかで優しい人でしたが、事故の後遺症で性格が変わってしまい、怒りっぽく、暴力的になってしまいました。幼い息子とおやつを取り合ったり、息子を相手に本気で喧嘩をしたり、私も主人の暴力で一時的に目が見えなくなったりもしました。状況を見かねた病院の先生が、このまま在宅介護を続けたら家族がダメになると、リハビリ施設への入所を勧められました。

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