■南部藩兵遭難供養碑
元町の大乗寺境内に「享和二年壬戌三月十七日」と彫られ、三面に計三十人の戒名が刻まれた高さ70センチ程の碑があります。
南部藩の通史である『南部史要』によると、「享和二年三月蝦夷地派遣の目付上田軍左衛門、書役上野佐右衛門その他足軽人夫百五人金平丸に搭乗し、十六日野辺地を出帆せしめたることとて、松前の木古内浦において十七日暁難破し、上田軍左衛門以下四十七人溺死したり」とあります(享和2年は1802年です)。この碑は南部領から海を渡り、蝦夷地へ向かう途中遭難した藩兵の供養のための碑です。元々は建有川付近の国道脇にあって、草に埋もれていたところを、昭和38年に当時の住職が移設したものということです。
この頃の蝦夷地は、ロシアの南下や外国の船がしきりに近づくなどしており、江戸幕府はその警備のために寛政11年(1799)から試験的に東蝦夷地の知床から浦河(のちに知内川以東まで拡大)を直轄地とし、津軽、南部の両藩に警備を命じていました。そのような背景の中、一団は海を渡ってきたのですが、図らずも命を落とし故郷を離れた地に眠ることになったのです。
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