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このまち大好き!芽室の歴史探訪

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北海道芽室町

■その98「渋山小(中)学校」芽室町渋山九線九十六番地)
芽室歴史探訪会 土岐一雄
渋山地区の開拓は、明治三十一(一八九八)年の岩手県人旭岡定吉の来住に始まるとされる。その後、年を追って移住者が増え、子どもたちが学齢に達した同三十九(一九〇六)年九月、幹線二十二番地に芽室尋常小学校渋山特別教育出張所が開設された。
校舎は草小屋で、児童数は十七~八名であった。同四十一(一九〇八)年五月、幹線三十四番地に移転し芽室尋常小学校渋山特別教授場と改称された。同四十四(一九一一)年一月、渋山教育所と改称され、同年八月、幹線三十六番地に校舎と教員住宅一戸が新築され移転した。
その後、年を追って通学児童が増えたので二学級編成となって校舎も増築され、大正五(一九一六)年五月には渋山尋常小学校と改称された。しかし、学校から遠い地区の戸数が増え、渋山教授場を開設したため、通学区域が縮小し単級編成になったが、昭和時代に入り、二学級編成に戻った。昭和九(一九三四)年十月、新校舎が完成し移転したが、同二十二(一九四七)年五月に火災により全焼。しかし、同年十二月には再建された。
さて、渋山中学校であるが、同二十三(一九四八)年四月、芽室中学校渋山分校として渋山小学校に併置されたのが始まりである。同年十月には、校舎が新築された。
次いで、同二十五(一九五〇)年四月に独立し、渋山中学校として改称され、校舎も増築され校舎内外が整備されていったが、やがて生徒数の減少が始まった。
そこで、同四十六(一九七一)年、芽室中学校渋山分校となり、同四十八(一九七三)年三月に廃校となった。
一方、渋山小学校は、算数科を研究教科として複式学級における指導の効率化に取り組むと共に、水泳や珠算・書道等を通して児童のへき地性の打破に努めた。
その後、児童数の減少が進んだため、同五十一(一九七六)年四月、七十年の校史に幕を閉じ、芽室西小学校に統合された。
なお、校舎はすでに取り壊されているが、その時期は不明である。

■引用・参考文献
「渋山中学校二十周年記念誌」昭和四十三年十二月八日発行
「渋山小学校開校七十周年記念誌」昭和五十一年三月十日発行
「渋山八十年の歩み」昭和六十年七月二十一日発行
「芽室町百年史」平成十二年発行

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