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このまち大好き!芽室の歴史探訪

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北海道芽室町

■その105「宝照寺」(芽室町本通六丁目一番地)
芽室歴史探訪会 土岐一雄
明治三十六(一九〇三)年、御影の真浄寺開基住職である永田鉄眼が、芽室基線西百三十五番地(現・芽室自動車学校西隣)に浄土真宗本願寺派芽室説教所を創設。これが、宝照寺の前身である。
この説教所の創設には、越中国(富山県)出身の長井卯太郎、美濃国(岐阜県)出身の白木甚作らが中心となって努力を重ねたものと思われる。
同四十三(一九一〇)年、泉亮照が着任した。亮照は熱心に布教に務め、大正六(一九一七)年、現在地に本堂と庫裡を新築し移転した。そして、同九(一九二〇)年、宝照寺という寺号が認可され、亮照が開基住職となった。
同十(一九二一)年二月、亮照が病没。一時、代務住職を置いたが、昭和六(一九三一)年に亮照の長男である亮信が第二世住職に就任し、同八(一九三三)年に納骨堂を建設、更に同十五(一九四〇)年には本堂の修復という大工事に取り組んだ。
やがて、同十九(一九四四)年に至り、太平洋戦争における道東の防備強化のために、芽室町に旭川の輜重兵第七連隊が駐屯することとなり、これに伴って宝照寺の一部が軍に接収されることとなった。
同五十(一九七五)年、第二世住職である亮信が住職の座を長男である信樹に譲り、信樹が第三世住職に就任した。
そして、同五十四(一九七九)年、本堂を移動改修、続けて同五十九(一九八四)年には会館と納骨堂を新築した。
同六十(一九八五)年、開教八十年を迎え、記念誌「志らはちす」を発刊。
しかし、平成七(一九九五)年に信樹が往生。同年、長男の恒樹が第四世住職に就任した。
その後、宝照寺は同十五(二〇〇三)年の開教百年という節目を経た後、令和五(二〇二三)年には室内型合葬墓を建設、寺号公称百年、開教百二十年の法要が営まれ、今日に至っている。

▽引用・参考文献
「開教八十周年記念誌志らはちす」昭和六十年十一月二十三日発行
「開教百周年記念誌・志らはちす」平成十六年三月十日発行
「芽室町百年史」芽室町役場平成十二年発行

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