文字サイズ
自治体の皆さまへ

このまち大好き!芽室の歴史探訪

35/50

北海道芽室町

■その108「廣證寺」芽室町上美生四線三十四番地
めむろ歴史探訪会 延與幸嗣
真宗大谷派廣證寺の興りは、明治四十三年に芽室町在住の有志九名を中心に、説教場の建立を願ったことに端を発する。
当時、芽室町中美生にあった真宗大谷派の説教場が廃止になり、その本尊は上美生にある中島伊次郎宅に安置され、遷仏法要が営まれた。
その二年後の大正元年に当説教場の本堂を建立し、翌大正二年、中島伊次郎宅に安置していた本尊を本堂に移し、遷仏法要が厳修された。その後森川氏が説教場に入り、大正六年十一月十七日に「廣證寺」の寺号が公称された。
開基住職森川憲證氏が初代住職となる。その後、大洞顕成、赤祖父静栄、赤祖父霊栄、宮脇深涯、宮脇公厳と住職が変わり、昭和二十三年法運寺の中村善俊氏が七代住職として入寺する。
昭和二十四年、四月十五日、漏電から出火し全焼する。
昭和二十八年十月になって本堂が再建され、同年十月二十八日に遷仏落慶法要を行った。翌二十九年五月十日の台風で本堂庫裡の屋根が飛ばされ、廊下も傾壊して大半が破損、大きな被害を受ける。
昭和四十二年三月、中村住職が病死、以後帯広の西真寺住職の朝日秀二が代務を務める。
昭和四十八年九月二十八日に中村善俊氏の長男八代中村俊道が跡を継ぎ、さらに平成二十六年二月二十八日に九代住職に中村俊道住職の長男中村俊風氏が就任し、現在に至る。

▽引用・参考文献
「上美生郷土史」
「芽室町八十年史」

六月号掲載の「曹洞宗大統寺」において「シブサラ原野」と掲載いたしましたが、正しくは「下帯広村」となりますので訂正いたします。

<この記事についてアンケートにご協力ください。>

〒107-0052 東京都港区赤坂2丁目9番11号 オリックス赤坂2丁目ビル

市区町村の広報紙をネットやスマホで マイ広報紙

MENU