■155年目の法要 飯倉を歩く
10月6日、中台・脱走塚(水戸藩士の墓)と今泉・水戸浪士の墓(切られ様・旧長泉寺跡)で水戸藩士の慰霊法要が行われました。水戸市から水戸殉難者恩光碑保存会や市関係者、匝瑳市からも市長、市議会議長や中台区長、龍性院関係者などが参列しました。
1868(明治元)年10月6日(新暦では11月19日)、水戸藩諸生党市川勢と追討軍・天狗党の戦いが中台周辺でありました。この戦いは当時から「松山戦争」と呼ばれていました。調査を進めると、「水戸藩国難事件殉難者名簿」などにはこの戦いでの死者が「八日市場にて戦死」と記載され、戦いの場が当時の中台村であったこと、脱走塚の供養を同地区が長年継続して行っていることなどで、140年を経過したころから名称を「八日市場・中台の戦い」としました。
諸生党市川勢はこの地での戦いが最後となったため、脱走塚が「諸生党終焉(しゅうえん)の地」とされています。『市川勢の軌跡』(市村眞一著)によると、1868年3月、水戸を脱走した市川勢は北陸、会津を転戦した後、水戸に戻ったものの戦況が不利なため、銚子を経て、八日市場にたどり着きました。その道のりは徒歩での約1000キロの行軍で、八日市場・福善寺到着時には80人ほどだったといいます。
中台周辺で30人、野手周辺で15人ほどが戦死し、戦いの後、周辺の村々へ逃れた30人余りの中にも他の地で亡くなった者もあったとされます。
50年余りに及ぶ調査を経て、まだ紹介していない場所があります。豊栄小学校東隣の寺跡に市川勢の戦死者3人が埋葬されていると語り継がれる場所です。中台から富岡を通り、飯倉で力尽きたのでしょう。
最近、八街市内にも水戸藩士を埋葬し、墓石が建てられた「脱走塚」と呼ばれる場所があることを知りました。
155年目の慰霊法要に参列し、かつて共に活動した先輩の遺志を引き継ぎ、調査を続けたいと強く感じました。
(市文化財審議会委員・依知川雅一)
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