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橋の伝説 長谷を歩く~匝瑳探訪 No.204

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千葉県匝瑳市

「お姫様」の登場する昔話や伝説は全国各地にあるようです。50年ほど前、市内に残る昔話や伝説を集めた際、長谷(共興地区)で拾えた「ふりそで橋」の話も姫伝説の一つといえるでしょう。
その話の載っている書物などはなく、語ってくれたお年寄りも当時80歳を過ぎていました。
長谷に横川という集落があり、その近くを流れる川に橋があったといいます。その昔、追っ手に追われたお姫様の着物の袖が橋に引っ掛かってしまい、逃げ切れずにそこで命を落としました。そのことから、橋を「ふりそで橋」と呼ぶようになったと聞きました。
伝説としてはそれだけの話ですが、当時すでに橋などのない広がる水田を眺めながら聞いたことで、強い印象が残りました。
長谷の如来寺周辺とその南に位置する本郷などは中世以来の集落で、さらに海岸に近い新田や曽根、横川などの集落は小字(こあざ)名に沼や川の付く地名が見られることからそれらを干拓して水田ができたのでしょう。
「ふりそで橋」の伝説が生まれた背景を探っても、この地域に伝説を残すような争いは思い当たりません。そこで想像を膨らませると、1685(貞享2)年に長谷村農民に出された判決に絡んだ伝説か、と思い至りました。
村内に20余りあった釜場を名主が横領した、と村人らが幕府に訴えました。幕府の下した裁決で、地図に見られる80軒余りのうち長谷村56人が仕置き(刑罰)を受けました。さらし首と打ち首7人、村からの追放(所払い)2人などが重い罪で、罪を負った農民の中には幼子がいたことでしょう。そうした悲劇が「ふりそで橋」の伝説を生んだのかも知れません。
さらし首となった八右衛門の供養碑が建てられたのは死後200年を経てからで、「ふりそで橋」の話はそれと結び付くようにも思えました。
(市文化財審議会委員・依知川雅一)

問合せ:秘書課広報広聴班
【電話】73-0080

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