文字サイズ
自治体の皆さまへ

豊漁の願い 吉崎を歩く~匝瑳探訪 No.206

22/36

千葉県匝瑳市

7月に入ると各地で「海開き」の情報が聞かれるようになります。かつては市内の海水浴場も観光客でにぎわい、伝統的な地引き網も行われていました。
九十九里浜の漁業はおよそ400年前、江戸時代の初めに関西から先進的な漁法と加工法が伝わり、次第に地元漁民に定着していったとされます。
遠浅で砂浜の続く九十九里浜は地引き網の漁場として、またイワシを乾燥させた肥料である干鰯(ほしか)の加工場として最適の地でした。
市内では1745(延享2)年の記録に野手村で地引き網が行われたとするのが現存最古とされます。
写真(本紙参照)は吉崎・星宮神社拝殿前の左右に置かれた2基の石灯籠で、同村の網主が「豊漁の願い」を込め奉納したものです。
左の石灯籠は1784(天明4)11月と翌年2月に石橋与右衛門が奉納し「天下泰平 五穀成就」に加え、「海上安全 水主(かこ)繁盛」と刻まれています。与右衛門は当時同村の網主で、「水主」とは地引き網を引く舟方で中心的な労働者でした。与右衛門は1869(明治2)年に隣村に網を売るまで50人ほどの水主を抱えていました。
地引き網は1823(文政6)年の記録では匝瑳郡に20あり、市域では野手、今泉、新堀、川辺、長谷、吉崎の各村に網主がいました。
右のものは、1862(文久2)年4月に宇野沢久兵衛が寄進し、これにも「海上安全 水主繁盛」と刻まれています。
吉崎村の水主は、1782(天明2)年28人、1814(文化11)年40人、1871(明治4)年52人、長谷村は明治4年網主1人、水主62人、あったことが記録で知られます。
2基の石灯籠は、九十九里浜での地引き網の隆盛を伝えるものです。旧野栄町域にもそうした記念物が残されているかも知れません。
(市文化財審議会委員・依知川雅一)

問合せ:秘書課広報広聴班
【電話】73-0080

<この記事についてアンケートにご協力ください。>

〒107-0052 東京都港区赤坂2丁目9番11号 オリックス赤坂2丁目ビル

市区町村の広報紙をネットやスマホで マイ広報紙

MENU