■疫病退散 飯塚を歩く
新型コロナウイルス感染症は発生から3年余りたった昨年5月「5類」へ移行され、収束へ向かいコロナ前の日常が戻りつつあります。
日本では紀元前から疫病の大流行があり奈良時代以降は天然痘やはしか、江戸時代にも風邪やコレラなどがまん延した時期があったとされます。
市内では疫病流行を伝える記録は見つかっていませんが、唯一「疫病から村を救った僧侶がいた」という言い伝えを飯塚地区で聞いたことがあります。
昭和50年代に飯塚、吉田、金原新田などの地区で10年ほど地域の人たちの協力を得て、1700年前後から1840年ごろまで徳川幕府から信仰活動を禁じられていた「日蓮宗不受不施派」の歴史を調べたことがありました。その時、飯塚地区御手洗(みたらし)集落の墓地にある題目塔がその僧侶の関係したものだと聞きました。
昨年初冬、京都から市内と多古町の寺や墓地の石塔を調べに見えた人を案内して、50年ぶりにその石塔を目にしました。
縦約78cmの題目塔の正面に「南無妙法蓮華経」、下部に「縁正日實」と刻まれ、1728(享保13)年に建てられました。この頃飯塚村で疫病がはやり、日實が経を「一萬三千五百部」唱え「退散」を祈ったのでしょうか。日實は「不受不施僧」の名簿によると、「飯塚村妙長寺」とあり、妙朝寺(通称・西の寺)21世と同一人物で、飯塚村を中心に信仰活動を行ったようで、1749(寛延2)年に死亡しました。
市内での不受不施派信仰は、およそ200年間に飯塚庵や金原新田庵を拠点に400人近い農民と50人ほどの不受僧の活動が確認されています。
日實の題目塔には花と令和5年春彼岸「脇、真々田」、同年秋彼岸「御手洗」集落の人たちにより真新しい塔婆が上げられ、300年続く日實へのあつい信仰が捧げられています。
(市文化財審議会委員・依知川雅一)
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