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シリーズめっけたぁ!!おらがの文化財(89)~南房総市内の文化財を紹介します~

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千葉県南房総市

■市指定有形文化財(古文書)
『上杉輝虎(謙信)書状(うえすぎてるとら(けんしん)しょじょう)』
所在地/明石(あかし)(三芳地区)
所有者/個人(館山市立博物館に寄託中)

□出陣せよ‼謙信から里見(さとみ)氏に届いた手紙
戦国時代に房総半島南部を支配していた里見氏は、相模国小田原(さがみのくにおだわら)(現在の神奈川県小田原市)を拠点とする後北条(ごほうじょう)氏と、何十年にもわたって敵対関係にありました。里見氏は、後北条氏が勢力を広げ、関東地方の大半を支配するにつれて、劣勢に立たされるようになったため、永禄(えいろく)3年(1560)頃から越後国(えちごのくに)(現在の新潟県)の上杉謙信(1530~1578)と協力関係を築くようになります。
上杉輝虎(謙信)書状は、「輝虎」と名乗っていた時期の謙信が、里見義堯(さとみよしたか)(1507~1574)へ宛てた手紙です。12月21日の日付と、本人の署名と花押(かおう)(サイン)が記されています。年号は記されていませんが、永禄6年(1563)もしくは永禄8年(1565)に書かれたとみられます。
これは謙信が上野国(こうずけのくに)(現在の群馬県)へ侵攻した後北条氏・武田(たけだ)氏の連合軍と戦うため、越後国浅貝(あさかい)(現在の新潟県湯沢町)まで進軍した際に書いたもので、里見氏に対して「もうすぐ沼田(ぬまた)(群馬県北部)に到着し、後北条軍と戦うと思うので、その隙に武蔵国(むさしのくに)(現在の埼玉県や東京都など)へ陣を進め、太田美濃守(おおたみののかみ)(同盟の武将)と協力して戦うように。」という主旨のことが記されています。書状を受け取った里見氏側が、どのような返答をしたかはわかりませんが、この頃の謙信と里見氏が緊密に連携していたことが伺えます。

□公開
・館山市立博物館で常設展示中

※マナーを守って楽しく見学しましょう。
※見学する時は、所有者・管理者の指示に必ず従ってください。

問合せ:教育委員会生涯学習課
【電話】46-2963

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