■大森陣屋~淀藩下総領2万石を支配した飛地陣屋~
享保8(1723)年、佐倉藩主稲葉正知(まさとも)は、山城国淀(やましろのくによど)(京都市)に転封(てんぽう)となります。その際、下総国の領地56カ村2万4834石余りが、飛地(とびち)として淀藩領となりました。
淀藩はこの下総領を支配するため、大森村に陣屋(じんや)を設置しました。木下街道の宿駅であった大森村は、木下河岸から利根川の舟運に通じており、領地経営の利便に優れた地でしたが、その設置は領民からの要望によるものでした。領民は、これから御用のたびに江戸の屋敷まで出向くことになり、時間や費用がかかるなどの困った問題が生じたため、大森村内の幕府陣屋跡に村々で陣屋を建てるので、役人を置き領内の支配にあたってほしいと願い出ました。淀藩では、江戸藩邸に近いまとまった領地であり、江戸の藩財政を支える役割を担う必要があった事情などもあって、領民の要望を受け入れる形で陣屋の設置に至ったと思われます。
大森陣屋には旅屋(たびや)・役所・長屋の3棟が建設され、代官・手代・使番(つかいばん)などの役人が常駐していました。代官は2人で、役宅の位置から東・西代官といわれ、月番で勤務しました。代官配下の手代と使番は、通常手代3人、使番6人で構成されていました。使番は陣屋の下役ですが、手代に昇進することができたようで、その中には下総領やその周辺の村の出身者がいました。淀藩では使番に欠員が出ると領内で希望者を募っており、領主の対応として興味深く、領内支配の円滑化を意図した姿勢がうかがえます。
<この記事についてアンケートにご協力ください。>