■渡し守甚兵衛(じんべえ) 〜義民(ぎみん)佐倉(さくら)惣五郎(そうごろう)への義理と人情〜
吉高と成田市北須賀(きたすか)を結ぶ甚兵衛大橋。この橋は、吉高村の甚兵衛という印旛沼の渡し守の名をとっています。
江戸時代初め、公津村(現成田市)の名主であった木内惣五郎が将軍への直訴を決意し、妻子との別れのために江戸から戻り、吉高から対岸の北須賀河岸まで船で印旛沼を渡ろうとしたところ、船は役人によってすべて封印されており、甚兵衛は禁を犯すのを承知で船を出し、惣五郎を対岸に渡した後で沼に身を投じたそうです。「渡守甚兵衛翁像由来書付」によると、甚兵衛の性質は剛直で、義侠心(ぎきょうしん)に富み、成田の相撲で逆手取りのために打ち殺されそうになったところを惣五郎に救われたとあり、このことが後に、惣五郎を助けた理由となりました。
惣五郎は、4代将軍徳川家綱(いえつな)の時代に佐倉藩の過酷な年貢に苦しむ農民を救うために、禁じられている将軍への直訴を決行し、処刑された義民佐倉惣五郎として知られています。この一件は後に物語、講談などに登場し、芝居での上演により広く知られるようになりました。また、惣五郎には、吉高の富井清右衛門(せいえもん)家から木内家の養子に入ったとする説や母親が富井清三郎(せいざぶろう)の三女だとする説があり、吉高との関係がうかがえます。
昭和43年に甚兵衛大橋が完成するまでは、北須賀と吉高の間に「甚兵衛渡し」と呼ぶ渡船場(とせんば)があり、現在、北須賀では甚兵衛公園が整備され、吉高では大正15年に建てられた渡守甚兵衛翁記念碑により渡船場をしのぶことができます。
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