■明治生まれの郷土の偉人
印旛沼と手賀沼に囲まれ、緑豊かな印西市。今回は、市内小学校で使用している社会科副読本にも掲載され、印旛沼と手賀沼の干拓に尽力された2人の偉人を紹介します。
◆吉植庄亮(よしうえしょうりょう)
吉植氏は、明治17年に後に衆議院議員として印旛沼の水害問題に取り組んだ父・吉植庄一郎(しょういちろう)の長男として、埜原(やわら)村(現本埜地区)に生まれました。若い頃から短歌を作り始め、大正11年に新聞社に入社。歌人としても活躍し、歌集『寂光(じゃっこう)』は高い評価を受けます。大正13年に長年暮らしていた東京から本埜村に戻ると、印旛沼の土地を開墾し、吉植農場と呼ばれる大規模な農地を完成させました。また、昭和11年には自身も衆議院議員に当選し、農村問題などに積極的に取り組むこととなります。かつて吉植農場があった場所は、現在では「吉植新田」の地名で名を残しています。
◆大菅喜一(おおすがきいち)
明治28年に、旧永治村で生まれた大菅氏は、昭和16年には永治村長となりました。明治43年、昭和13年と16年に手賀沼の洪水を経験。手賀沼の治水には排水施設の設置が不可欠だと考えるようになりました。昭和26年ごろになると、国に対して排水施設の設置を強く訴えるなど陳情を活発化。昭和27年には手賀沼干拓計画において大菅氏の主張する排水事業が優先されることが決まり、昭和31年、ついに手賀排水機場が完成しました。完成後、洪水の心配が大幅に減った手賀沼周辺の地域では干拓工事が進み、水田や人口が増えていくこととなりました。
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