里見義堯は、「里見八犬伝」で有名な里見氏の最盛期を築き、戦国時代、久留里城を拠点に房総に覇を競った戦国武将の一人です。
北条氏綱・氏康や武田信玄、上杉謙信らとも関係を持ち、君津の地で戦国時代を生き抜いた里見義堯。今回は、今年で没後450年を迎えた里見義堯の生涯と久留里城址資料館で行われる企画展をご紹介します。
永正4年(1507)、里見義堯は、里見実堯の嫡男として安房国(現在の千葉県南部)に生まれました。父・実堯(さねたか)は、兄とともに安房国支配の進展に努めましたが、義堯が27歳のときに天文の内乱により討ち取られます。
内乱発生後、百首(ひゃくしゅ)城(富津市)へ逃れた義堯は、北条氏綱の協力を得て父の仇を討ち、里見氏の家督を継ぐことになります。北条氏の支援により内乱に勝利した義堯でしたが、上総武田氏の内乱をきっかけに北条氏と断交します。
その後、義堯は上総への進出を果たし、武田氏の佐貫城や久留里城を奪取します。この頃から義堯は久留里城を本拠とし、本格的に城の整備を進め、県下最大級の山城を築きあげたようです。久留里城を上総支配の最前線基地として位置づけた里見氏と、房総への進出を目指していた北条氏との争いは次第に激化していくことになります。
▼北条家との争乱を経て迎えた里見氏の最盛期
天文22年(1553)、上総・安房周辺の有力な土豪らを味方につけた北条氏は、金谷城を攻め落とすなど戦況を優位に繰り広げていきます。一方、義堯は嫡男・義弘に家督を譲り、父子による両頭体制が敷かれるようになりました。その後も北条氏の侵攻は続き、一時は北条軍に久留里城を包囲されるほどの苦境に陥りましたが、同盟関係にあった上杉謙信の協力などにより一進一退の攻防を繰り広げます。
永禄10年(1567)、三船山合戦に勝利し、上総全域の支配権の確立と下総への進出を果たします。その後、上杉謙信との同盟を解消し、武田信玄と同盟を結び、勢力の最盛期を迎えました。
▼義堯亡き後の里見氏
義堯は、義弘に家督を譲った後に出家し、晩年は隠居していました。それでもなお、里見氏の象徴的な存在として影響力を持ち続け、天正2年(1574)、久留里城で68年の生涯を終えました。
義堯の死後、里見氏を取り巻く環境は大きく変化し、家督争いや転封(徳川幕府の命令で、大名の領地を他に移すこと)により里見氏は滅亡することとなります。この房総の地を舞台に諸武将と覇を競った里見氏に関する資料や史跡が、市内外に数多く残されています。次のページでは、義堯の没後450年を記念して現在開催している企画展や関連イベントについて紹介します。
○里見家家系図
○里見義堯の生涯と周辺の動き
※義堯の年齢は、数え年です
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