大正、昭和、平成、令和の時代を生き抜いてきた中西春男さん。
北海道の開拓移民だった父親を5歳で亡くし、母シメさんと兄弟6人で支えあいながら、1978年に日本最寒の『マイナス41・2℃』を記録した北海道稚内市の下方にある幌加内町で、幼少期から50歳までを過ごしました。
開拓当初、荒れ果てた雑木林を人力で切り開き、開墾水路を作るなど土地の改良を繰り返したと言います。
昭和初期は、自給自足の生活で、わずかな作物で生きるのがやっとの暮らしで「灯りは、くじらの油をお皿にチョイと垂らして火をつけて、ロウソクは高級品でしたね。冬は、集めておいた薪で暖をとりました」と当時を振り返ります。
昭和17年、20歳で召集令状を受け、樺太(からふと)の前線で将校の送迎など裏方部隊として昭和20年の終戦まで従軍。
戦後は、徐々に道路の整備や農業の機械化も進み、高度経済成長も経験しました。
◆感謝の心でご機嫌な毎日を
数年前から足腰が弱り、車椅子や福祉サービスなどの支援を受けながら、在宅介護の生活を送っています。山武市に暮らして約30年、地域の老人会の皆さんと旅行に行ったり行事に参加したりして、楽しい時間を過ごしてきました。
戦前戦後の激動の狭間を歩んできた今、「テレビを見たり福祉サービスを受けたりしながら、家族と平穏な暮らしができるありがたさに感謝する毎日です」
◆戦後の人生で思うこと
「山武市に移住し、地域の皆さんに本当に良くしていただきました。終戦までは生きるだけでやっとの暮らしでしたけど、多くの方々のおかげで今があり、満100歳を迎えたときに、当時の内閣総理大臣から送られたお祝い状は、家族やたくさんの方々に支えられた証と、心から感謝しています。人生を振り返ると、『戦争のない世の中と健康』それが一番大切だと思っています」
◆中西 春男さん(102歳)
北海道出身 大正11年5月21日生まれ
昭和17年、第二次世界大戦の召集令状を受け、樺太国境守備隊第7中隊に従軍。
終戦後、妻キヨミさんと結婚し、4人の子を授かる。
平成5年、次男家族と共に山武市(白幡)へ移住する。
※詳しくは広報紙P3をご覧下さい。
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