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先人たちの足跡 No.290

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千葉県栄町

■浅間山古墳と岩屋古墳(二)
龍角寺古墳群が位置する印旛沼東岸には、公津原古墳群や大竹古墳群があり、印旛沼の北東部だけで360基を数える下総最大の古墳密集地でした。4・5世紀の古墳もあり、古墳時代の全期間に渡って、印旛郡の北東部には相当な勢力の豪族がいて、その人たちの古墳が集中しています。その中でも最後に栄えたのが龍角寺古墳群です。
日本列島において、6世紀以降に築かれた大型の前方後円墳の数を比較すると、大和王権の中心部の奈良、大阪、京都よりも、関東地方の方が圧倒的に多くなります。大型古墳の中心地が、畿内から関東地方へ移動してしまうという歴史的な現象がありました。
浅間山古墳は墳丘の長さがは78mで、100mに及ばないのですが、上総(千葉県南部)の金鈴塚古墳(木更津市)や、上毛野(群馬県)の二子山古墳(前橋市)などの100m級の前方後円墳が、7世紀に入る頃まで関東には次々に造られていました。
この頃、関西では、王陵以外に大型の前方後円墳は造られなくなっています。その理由には、墳墓を築造する際に規制がかかっていたことと、中国大陸の制度を導入するため旧体制の象徴だった前方後円墳そのものを造らなくなっていたことが挙げられます。関西では、6世紀後半から大型の方墳・円墳へ切り替わりましたが、関東では7世紀になって変化しました。
また、大和王権は、新しい政治制度を導入する際に、人々の心を一つにする目的から、6世紀後半代になると、本格的に仏教を取り入れました。上総の金鈴塚古墳や、上毛野の高崎観音塚古墳からは、仏具としての銅鋺が出土しています。金属のお椀は、日本では現在もあまり馴染みがありませんが、仏具としては金属の器が用いられています。日本で、主に、仏事に金属の器を用いる文化は、この頃を起源とするようです。
仏教の推進派であった推古天皇と摂政の厩戸皇子が、7世紀に入って様々な制度を作りますが、王族と蘇我氏以外の中央の官人や地方の豪族の身分を定めた冠位十二階はその一つです。この制度が、次号で紹介する浅間山古墳から出土した冠を読み解く際の鍵となります。

生涯学習課文化財班
【電話】95-1112

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