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歴史のしずく

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千葉県白井市

■佐倉炭(さくらずみ)
江戸時代後末期から近代、下総地域で焼かれた炭を江戸や東京では「佐倉炭」と呼びました。佐倉炭は富塚村の川上右仲が創始者として知られます。佐倉炭と川上右仲の関係は、明治期に子孫の川上英太郎が文書にまとめています。
川上右仲は天明年間(1781~89)から山火事対策で植林を行っていましたが、寛政5(1793)年に小金牧(江戸幕府の設置した馬の放牧場)の牧士となり、その後、林業に精通していることから御林掛に任じられ、牧の木の伐採・改良と数万本の苗の植林に従事しました。伐採で出た薪(まき)にならない悪材を相州(そうしゅう)(神奈川県)から職人を呼んで炭にしたのが下総地域の炭の焼始めであり、なかでもクヌギの棒炭(ぼうずみ)は「佐倉炭」と呼ばれていると記されています。なお「佐倉炭」の呼称は「佐倉藩が炭を集め、江戸の問屋が販売したこと」や「佐倉藩が下総の名産として諸公へ贈呈したこと」から付いたという2つの説を紹介します。
下総地域では平安時代末の香取神宮の遷宮文書に炭焼きの記録があり当時は平塚郷も炭を献納しますが、川上右仲が技術導入するまでは悪材は炭にできず、炭を大量に焼けなかったのかもしれません。
寛政5年、江戸幕府の岩本石見守は牧の改革に着手し、現金収入の確保を図りました。その一つが小金牧のクヌギ林の伐採・植林で、川上右仲が実務に当たり、幕府は薪や炭を売ることで収益を得られるようになりました。同じ頃、牧周辺の村々は牧内に植林することが許可されます(野馬入新田)。牧の広がる下総地域の村々では炭焼きが活発になり、文政8(1825)年には佐倉藩が領内で焼かれた炭を集めて江戸に売る専売制度を導入しました。
川上家の史料では地元では単に棒炭と呼んでいたことが記録されていますが、幕府(野馬奉行)、佐倉藩、牧周辺の村々の農民が売った炭の総称として江戸では「佐倉炭」と呼んでいたようです。
棒炭は硬めのクヌギを長さ約45センチメートルに切って5昼夜焼き、皮が銀に光り切り口に小ヒビが入るものを最上とするそうで、さまざまな炭窯の中でも縦長の川上式の窯の炭が最も硬く炭質が良いとしています。

問合せ:生涯学習課
【電話】492-1123

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