■白牛酪(はくぎゅうらく)
酪とは乳のことです。江戸時代の享保年中(1716~36年)、8代将軍徳川吉宗は日本中から購った白牛3頭を嶺岡牧に放牧しました。白牛はその後70頭余に増え、嶺岡牧掛となった岩本正倫は白牛から乳製品を作れないか検討しました。とはいえ酥や醍醐は御三卿の田安家に製法が伝えられているので盗用を疑われます。岩本は寛政4(1792)年春に嶺岡牧に行き、試行錯誤の末、砂糖を混ぜて石鹸程の硬さに煮詰めたといわれる、白牛酪(干酪・乾酪)を完成させました。
白牛酪は11代将軍徳川家斉に進呈され、奥医師が薬効を確認し、人々に広めることとなり、寛政4年秋に「白牛酪考」が刊行されました。その中で医生の桃井寅(源寅)は、嶺岡牧の白牛は普通の牛ではなく天竺(インド)の白牛と同じ白牛の一種であり、白牛酪も天竺の物と同等であると考察し、解題を奥医師の宗仙院橘元周が記しています。
岩本正倫は嶺岡牧から白牛を取り寄せ製薬に取り組み、近江屋利兵衛に販売を相談しました。寛政5年に野馬掛に就任すると屋敷に牛部屋・製薬所を造り、取次所を増やした結果、事業は軌道に乗り、寛政9年に岩本個人の事業から幕府の事業へと切り替えようと上申書を提出しました。その際の史料「野馬掛白牛酪御製法一件留」が、富塚地区で牧士を務めた川上家に残り、県指定文化財となっています。
史料によると、精血を生し肌や腸を整え瘡腫を治す、主に温酒で服用する「白牛酪」、腫に関係する病に効があり、塗薬としても使う「玉洞丹」、小児には湯に混ぜて行水させて使う「玉芳水」の3種の薬がありました。岩本は入手し易いように今後は半額にしたいと上申し、玉水丹1両(約37・5グラム)を4百銅、玉洞丹1包32銅、硝子入の玉芳水は72銅で販売することとなりました。
白牛酪は江戸の近江屋利兵衛を売弘所とし、江戸を中心に大坂・京都・名古屋・加賀・安芸など全国15カ所に取次所を設けました。その一つが富塚村の川上次郎右衛門で、千葉県内唯一の取次所でした。
川上家の販売実態は不明ですが、幕府では幕末まで白牛酪を販売したようで、川上家に残る慶応2(1866)年の「御金引渡目録」には「酪」の項があります。
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