■江戸十里四方
現在、白井市は都心から30キロメートル圏の境界に位置し、東京からアクセスしやすい一方で自然環境も多く残る点が街の魅力の一つとなっています。
江戸時代にも江戸からの距離が意識されます。江戸から十里四方は基本的に大名領が無く、幕府の直臣である旗本の領地が置かれました。一里は約4キロメートルなので、十里は約40キロメートルということになります。これは緊急時には一夜泊りで江戸に駆け付けられる距離として設けられたそうです。そのため、江戸時代の白井は大半が旗本領でした。白井は幕末には4千石の知行地がありましたが、代官所支配地を除くと14の村に19人の旗本と2つの藩の知行地がありました。村数より領主が多いのは、一つの村に複数の領主が居る相給と呼ばれる状況があったからです。市内では富塚村や谷田村が相給となっており、領主毎に名主が置かれました。
徳川家康が関東に領地を持つようになったのは豊臣秀吉が北条氏を攻めた小田原征伐後、天正18(1590)年のことです。戦国時代、白井市周辺は千葉氏やその一族の領地でしたが、千葉氏一族は北条氏に味方したため領地を失います。徳川家康の関東入国後、旗本の領地が分け与えられていきますが、市内の旗本は、橋本村の今村氏や七次村の新見氏のように徳川家康に三河以来仕えた家もありますが、長殿村の勝部氏や富ヶ谷村の間宮氏、富塚村・谷田村の遠山氏のように北条氏の旧臣から旗本となった者もいました。旗本は領地替えされることもあり、富塚村の領主は寛文3(1663)年に高田氏から伊吹氏に替わっています。
白井市内の2つの藩の内、高岡藩は寛永17(1640)年に立藩した藩です。牢人(ろうにん)だった井上政重が慶長13(1608)年に2代将軍徳川秀忠の書院番士となり、初代総目付などで活躍し、知行が加増され譜代大名となりました。もう一つの藩は今井新田を知行した浜松藩です。今井新田は手賀沼を開拓してできた村で、享保15(1730)年に正式な村となった際は幕府領でしたが、幕末には浜松藩領となります。当時の藩主は井上正直で、高岡藩の井上氏の宗家に当たります。
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