■白井の馬医
馬医は文字通り馬のお医者さんです。馬は古墳時代に我が国へ渡ってきた有益な動物であったため、早くから馬の治療にも関心がもたれ、飛鳥時代に聖徳太子や橘猪弼が、高句麗僧恵慈から馬の治療を学んで、太子流療馬術を確立したとされます。古代の律令国家でも左右馬療に馬医が配置され、桓武天皇の時代に唐で学んだ平仲国は、馬医の生業を広めたとも伝えられます。
中世の武士の時代に、馬は欠かせない存在となり、療馬術に関わる書物が盛んに輸入されて知識が広まり、伯楽と呼ばれた馬医が各地に現れました。馬医の知識や技術は代々相伝や徒弟制で受け継がれ、平仲国伝流とする桑島政近は桑島流馬医術を創始して、門人たちに桑島姓を与えました。天和元(1681)年の武鑑の御馬医師に桑島内蔵助や桑島孫六郎の名が見えます。
市内でも、代々馬医を勤めた家があったことが近世の小金牧関係史料で知られます。小金牧では定員一名の馬医を置いていましたが、その馬医を代々勤めていた日暮村(松戸市)の五平次が寛政7(1795)年に退役することになり、跡役として所沢村の稲葉幸助に白羽の矢がたてられました。幸助は当時、生業として千疋余りもの百姓持馬を診ていたので、小金二牧を担当する金ケ作陣屋の馬医なら引き受けられるが、小金三牧を担当する小金御厩の馬医までは勤められないと答えています。幸助以外に馬医がいなかったことと、幸助の子孫が小金牧の馬医になっているため、結局幸助が小金五牧の馬医を引き受けたとみられます。その孫とみられる定右衛門も文化9(1812)年以前から小金牧馬医を勤めていて、定例や臨時の野馬捕りの際の手当てを支給されています。
小金牧の馬医が安政4(1857)年に日暮村の五平治に移っているため、この頃小金牧の馬医役は返上したようです。しかし、生業としての馬医は代々継がれたようで、稲葉家で生まれ育ち、明治時代に松戸に転出した近代の幸助は、明治18(1885)年に千葉県の従来の馬医のいい加減さを嘆いて、獣医学士を招き、旧印旛郡・下埴生郡・南相馬郡・東葛飾四郡にわたる獣医講習所を白井村に設けて幹事を務めていました。また、わが国初の獣医開業試験に合格して、明治22(1889)年に千葉県から牛馬共進會世話係に任命され、さらに、松戸警察署の嘱託獣医なども務めました。
問合せ:郷土資料館
【電話】492-1124
<この記事についてアンケートにご協力ください。>