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特集「成長を、止めない。」 サッカー指導者 廣山望さん(2)

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千葉県袖ケ浦市

◇サッカーができる環境がどこにでもあった
蔵波中学校にあがってからは、市川市にあるクラブチームに所属していました。チームの練習以外にも、当時は小学校のグラウンドが休日も開放されていたので、仲間と集まってサッカーをしていました。近所に公園もあったので、ボールを蹴る場所には困らなかったです。
一人の時は、実家の塀とその向かいのお宅の塀を使って、ずっと壁当てをしていました。今思えば、壁は汚れるし、音はうるさいし、嫌がられる方が多いと思うのですが、向かいに住んでいた方は「将来プロサッカー選手になったら自慢できるからいいのよ」と言ってくださって(笑)。その方のおかげで、プロ選手になれました(笑)。

◇「上手くなりたい」という想いの延長線上が「サッカー選手」だった
高校2年生の終わり頃に、プロチームのスカウトの方が来て、声をかけてくれました。そこで初めて「プロになれるのかな」と意識しました。
幼稚園の頃「サッカー選手になりたい」と書きましたが、それはただサッカーが好きだっただけで、プロになることを特別意識したことはなく、「プロ選手になりたい」という気持ちよりも「サッカーが上手くなりたい」という気持ちの方が強かったです。中学3年生の時にJリーグができて、プロサッカー選手が出てきた時も、どこか他人事でした。高校サッカーでは何となく手応えを感じていましたが、自分がどのくらいのレベルにいるのか分からなかった時に、スカウトの方に声をかけてもらったことは、自分の立ち位置の目印になりましたね。
ずっとサッカーが好きで「上手くなりたい」という想いの延長線上に「サッカー選手」があったので、夢が叶うという感じではなかったです(笑)。
僕がプロになれたのは、地元をはじめ関わってきた方の支えや、運があったからだと思っています。

◇刺激的で「楽しい」の連続だったプロ1年目
プロ1年目に所属したジェフユナイテッド市原(現ジェフユナイテッド市原・千葉)には、当時ヨーロッパなどの代表チームで活躍していた外国籍の選手が数名チームメイトにいました。
高校を卒業してプロになった僕にとっては、世界で活躍していた選手とロッカールームを共にしたことが、とてもショッキングなできごとでしたね。彼らは僕の想像を超えるメンタリティや考え方を持っていて、平和な日本を生きてきた僕とは一線を画していましたし、全てが違いました。試合での立ち振る舞いや感情の表し方、勝負にかける思い、仲間への要求の仕方…高校という枠組みの中でしかサッカーをしてこなかった僕には、とても衝撃的で刺激になりましたし、サッカーがもっと好きになりました。18歳の時にこういった環境を経験できたことは、大きな財産になりましたね。
また、この頃はチームの試合だけでなく、アンダー世代の代表の海外遠征などもあり、とにかく必死でした。それでも毎日が「楽しい」の連続でしたね。

◇辛い時期にブラジルで見た光景は、今の自分の糧になっている
ジェフで5年間プレーした後、僕は海外へ移籍し、二〇〇二年に日韓ワールドカップが開催された当時はブラジルにいました。
ワールドカップの半年前までは日本代表に呼んでもらっていて、出場できるチャンスがあったのですが、当時の所属先だったブラジルの経済状況が悪く、チームと契約して練習もしているのに、ビザがおりないので試合には出られない、という時期が3カ月ほどありました。当然ワールドカップには出場できず、かなりしんどい状況でした。
ですが、当時のチームには、何カ月も給料が支払われていない選手やクラブスタッフがいて、僕よりも大変な状況なのに、みんな楽しそうにサッカーをしているんです。
またワールドカップ期間中も、日本と時差があるのにも関わらず、国中が、昼間は国内リーグを、夜はブラジル代表を応援していて、国内が大変な状況であっても、サッカーを心から楽しんで盛り上がっていました。その光景を見て「すごいな、これは勝てないな」と思いましたし、同時に、僕もこちら側の人間になりたい、同じメンタリティになりたいなとも思いましたね。
当時の経験は、今でも辛いことがあった時に、ポジティブに働いています。

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