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8月15日 終戦記念日 戦争体験者へのインタビュー(1)

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千葉県袖ケ浦市

■宗政丈夫(むねまさたけお)さん(88歳)
昭和11年2月生まれ。横田で生まれ、子どもの頃に第二次世界大戦を経験する。
叔父の宗政武夫氏の遺品や資料が、現在郷土博物館1階の「歴史展示室・近現代コーナー」で展示されている。

◇叔父・宗政武夫(たけお)
郷土博物館の常設展示の一角に、私の叔父「宗政武夫」の資料が展示されています。
叔父は私が生まれる2年前の昭和9年(1934年)に戦死したため、会ったことはありませんが、私が聞いたり見たりした叔父にまつわる話をしたいと思います。
叔父は、大正2年(1913年)に中川村(現在の袖ケ浦市南部にあった村)横田で生まれ、20歳の時に徴兵検査に合格し、手柄を立てたいと自ら志願して軍人となりました。合格した年の12月に満州(現在の中国東北地方~ロシア沿海地方)へ渡りましたが、翌年4月に萌芽山(ほうがさん)で戦死しました。
同じ部隊の方達から戦後にもらったお悔やみの手紙には、萌芽山に追い詰められ岩窟内に立てこもった敵兵からの銃弾に一度は倒れたものの、再度起き上がって立ち向かい、さらに銃撃を受けたと叔父の最期が書き記されていました。
一目散に敵に立ち向かっていったという叔父は、生前の手柄が認められ、亡くなった後に階級が二階級上がったそうです。

◇中川村で初めての村葬
叔父の葬儀は、中川村初の村葬として、中川国民学校の講堂で盛大に行われました。県内で2番目に行われた村葬だったと聞いています。
葬儀の時は、現在の横田のウェルシアから横田駅のあたりまで、村民が日本国旗を持ってお見送りしたそうです。葬列の先頭が会場に着いても、最後尾は出発できていなかった程に多くの方が参列していたと聞いたこともあります。
当時は「名誉の戦死」と讃(たた)えられるような時代でしたので、位牌(いはい)や勲章が国から送られてきました。勲章は今はもう残っていませんが、葬儀でも使用した位牌は郷土博物館に展示してあります。

◇子どもの頃の戦争の記憶
私は昭和11年(1936年)に、6人兄妹の長男として横田に生まれました。
裕福ではありませんでしたが、命を繋ぐことができるくらいの食べ物はありましたし、父が徴兵されずに両親ともに一緒に暮らしていたので、まだ恵まれていたと思います。
私が5歳の時に第二次世界大戦が始まり、9歳の時に終戦を迎えました。
戦時中はこの辺りでも空襲警報が鳴り響き、その度に部屋の電気を消したり、自宅の敷地内にあった防空壕へ避難したりしました。
戦時中に一度だけ、アメリカ軍の攻撃にあったことがあります。当時私が通っていた中川国民学校の近くに、学校所有の実習地(農地)があり、働き手が不足していたこともあって、子ども達はそこで農作業をしていました。実習地での作業を終え、みんなで学校へ歩いて帰っている時に、アメリカ軍の機銃掃射(きじゅうそうしゃ)(飛行機から機関銃で射撃すること)の攻撃にあいました。
耳元で「ババババッ」とすごい音が鳴り、とても怖かったことを覚えています。幸いにも怪我人はいなかったので、もしかしたら子どもだけだったので、あてずにいてくれたのかもしれません。

◇叔父に生きていてほしかった
戦時中、当時近所にあった藤本旅館に、学童疎開で東京の墨田から来た子ども達が滞在していました。疎開児童の親が会いに来ているところを見かけたことがあるのですが、私と同い年くらいの子ども達が、親元を離れて寂しい思いをしているんだな、私は両親と一緒に暮らすことができて恵まれているなと思ったことを覚えています。
ただ、私には両親も弟妹もいましたが、叔父がいません。父方の叔父が先ほどお話しした武夫で、母方の叔父は2人いたのですが、どちらも戦争で亡くなってしまいました。私は長男で、父親以外に身近な大人の男性が周りにいなかったこと、また父親は生活に追われていたことから、気軽に相談できる叔父という存在がいてほしかったなと今でも思います。

◇蒸し暑かった日の玉音放送
終戦は、9歳の時でした。玉音放送が流れた日は、蒸し暑かったことを覚えています。
当時の日本は報道規制がされており、良いニュースしか流れなかったので、戦争に負けるとは思ってもみませんでした。
終戦を知った時は、何も考えていなかったです。戦争が日常にあり、戦争の痛みに鈍感だったのだと思います。終わったという解放感も、そんなになかったです。

◇戦争で得られるものは何もない
現代においても、世界には戦争をしている国があり、不幸な人がたくさんいます。武器を使って戦争をして、得られるものは何もありません。それだけは歴史が教えてくれています。
郷土博物館の展示には、村葬で使用した位牌のほかにも、叔父が戦死した時に胸ポケットに入れていた「歩兵操典(ほへいそうてん)(陸軍の訓練基準や戦闘指針を記した冊子)」や、叔父の写真、村葬の資料などがあります。とくに冊子には、銃弾の跡が生々しく刻まれています。
終戦から年月が経ち、戦争の記憶が薄れていく中で、当時の軍人が身に着けていたものを実際に見てもらい、よりリアルに戦争を感じ、戦争や平和について考えてもらえたらと思います。

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