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歴史資料館 連載三七九

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千葉県鋸南町

■家康とお万の方
前回は水戸徳川家初代頼房(よりふさ)の養母、お梶(かじ)の方の話をしました。今回は実母であるお万(まん)の方のお話です。彼女もまた波乱の生涯を送った女性です。
お万は上総国勝浦城主正木頼忠(まさきよりただ)の娘として天正五年(一五七七)に生まれました。勝浦城は海にせり出した八幡岬(はちまんみさき)の突端にあります。豊臣秀吉の小田原攻めの際、落城する勝浦城から弟を背負い、母と四十メートルある岬の断崖に白布をたらして下り、小舟で逃れたと伝わります。これが地元に伝わる「お万の布さらし」の伝説です。
しかし、これは年代が合わないとも言われ、伝承の域を出ません。
とにかく伊豆に逃れ、母が再嫁した河津(かわづ)の蔭山(かげやま)氏のもとで暮らしていました。その美しさは近隣に知られていたそうです。
やがて、江戸に移った徳川家康の目にとまり、側室となりました。そして家康の十男長福丸(ちょうふくまる)と十一男鶴千代(つるちよ)を生みます。長福丸は徳川御三家の紀州徳川頼宣(よりのぶ)となり、鶴千代は水戸徳川頼房となります。
お万は日蓮宗に深く帰依し、身延山(みのぶさん)の日遠(にちおん)上人を師と仰いでいました。しかし徳川家は浄土宗。ある時、日遠上人が家康に直訴し怒りを買い、処刑を言い渡されてしまいます。安倍川で処刑される朝、お万は水垢離(みずごり)し、意を決して白装束(しろしょうぞく)で家康に「私もいっしょに殺して下さい」と歎願(たんがん)。その覚悟(かくご)に処刑は取りやめになったと言います。
法華経(ほけきょう)を守護する七面天女(しちめんてんにょ)をまつる身延山近くの七面山は、女人禁制でしたが、白糸の滝で七日間精進潔斎(しょうじんけっさい)し、女人で初めて七面山に登ることを許され、以後女人登山ができるようになりました。
しかし徳川家では、お万が日蓮宗を信仰することは正式に認められず、「養珠院(ようじゅいん)」として出家するのは家康の死後でした。
承応二年(一六五三)、養珠院は七十七歳で亡くなり、身延の本遠寺に葬られました。息子の紀州頼宜、水戸頼房じきじきに富士川で荼毘(だび)に付(ふ)したそうです。

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