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歴史資料館 連載三七二

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千葉県鋸南町

■市部瀬の惨劇
戦争はいつの時代でも悲劇しか生みません。太平洋戦争末期、日本への本土空襲が高まる昭和二○年(一九四五)五月八日、安房勝山駅十一時五○分発の下り列車が、下佐久間の市部瀬(いちぶせ)の直線の線路にさしかかったところで、アメリカ軍機に空から無差別(むさべつ)に銃撃(じゅうげき)されるという事件が起こりました。
この日、太平洋上から九十九里方面を経てアメリカ軍機P五一約一○○機が飛来。千葉、木更津周辺を襲撃した後、三十八機が館山方面に南下したと言います。この内三機が列車を襲いました。
突然バリバリバリという大音響がしたと思うと列車は急停止しました。軍機が波状攻撃(はじょうこうげき)を繰り返し、低空で列車に機銃掃射(きじゅうそうしゃ)を加えたのです。
乗客らはなすすべなく、死者十三名、負傷者四十六名の犠牲者(ぎせいしゃ)を出しました。負傷者は勝山病院、武内病院にかつぎ込まれ、医療関係者総出で治療にあたりました。
この日は休日で、久しぶりに故郷へ帰る人たちが多かったことも悲劇でした。川崎の工場に勤務し、三芳(みよし)の両親に会いに行く途中だった二十歳の男性。試験に合格し、女性ながら念願の鉄道職員となり千葉駅に勤務、初めての休日で館山に帰る途中だった二十歳前の女性。お産のため実家に帰り、生まれたての赤ちゃんを連れて、館山のご主人のもとへ行く途中だった母親。皆銃弾(じゅうだん)を受けて亡くなりました。その母親は館山の海軍基地から戦地に向かうご主人に面会に行くためでした。幸い赤ちゃんは助かり、地域の方に引き取られ成長したそうです。市部瀬の民家も被弾(ひだん)し、かやぶき屋根が全焼したお宅もありました。
現在の鋸南小学校の校庭にも薬(やっ)きょう(銃弾を発射した殻(から))がたくさん落ちていたそうです。
決して忘れてはならない市部瀬の惨劇(さんげき)として、その場所には現在、「恒久平和祈念(こうきゅうへいわきねん)の碑(ひ)」が建てられています。

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