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歴史資料館 連載三七五

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千葉県鋸南町

■鋸山の霞の碑
鋸山の日本寺境内に江戸時代の俳人長谷川馬光(はせがわばこう)の「引(ひき)おろす鋸山の霞(かすみ)かな」の句碑(くひ)があります。馬光は葛飾派(かつしかは)という俳諧(はいかい)流派の本家、其日庵(きじつあん)二世で、寛延四年(一七五一)五月一日に亡くなっています。その句碑は鋸山山麓の房総葛飾派の重鎮(じゅうちん)である元名村の岩崎児石(じせき)、金谷村の鹿尾(かお)らが、ぜひ鋸山に建立したいと願い、馬光の五十回忌を記念し、建立にこぎつけたものです。
碑文は葛飾派其日庵三世の溝口素丸(みぞぐちそまる)に揮毫(きごう)を依頼し、寛政二年(一七九〇)に完成、四月一日に建碑式が催され、この時、一門の小林一茶(いっさ)(二十八歳)も参加したと言われます。
さて、ここで疑問がわきます。馬光五十回忌は一八〇〇年であり、十年も前倒ししたのはなぜか。そして命日は五月一日なのに、四月一日にしたのはなぜか。そのかぎとなるのは、同年五月に上梓(じょうし)された記念句集「霞の碑」の加藤野逸(かとうのいつ)が記した序文(じょぶん)にあります。
野逸は天明五年(一七八五)に師の素丸から其日庵を受け継ぎ、四世となっていた人物で、この建碑式にも尽力した人です。その序文を意訳すると、
「馬光先生が鋸山を詠(よ)んだ句を日本寺に建てたいと、私は常々願っていたが、険阻(けんそ)な鋸山へ大石を揚(あ)げるのは容易(ようい)ではないとあきらめていた。しかし去年秋頃私が当地を訪れた時、麓(ふもと)の児石や鹿尾らがしきりに催促(さいそく)し、地元の同志ら力を合わせて、五十回忌を今年に取り越し、本当は五月一日だが、四月一日に建碑が行われた。碑面は七十九歳の素丸老師が揮毫し、導師は日本寺東永(とうえい)大和尚がとり行った。」
建碑は地元の強い要望だったようです。そして前倒しは大師匠、溝口素丸の高齢を考えて早めたとも考えられますが、日本寺も大きく関わっていた気がします。この時、羅漢(らかん)造立事業の真っただ中、住職は東永でしたが、発願者の愚伝(ぐでん)は隠居(いんきょ)で健在でした。
江戸や房総の富裕層に浸透(しんとう)していた葛飾派の俳人らが、おそらく大挙して集まるだろうこの一大イベント開催は、日本寺の羅漢PRにもなると愚伝は考えたのではないでしょうか。

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