■師宣の昇り龍
菱川師宣(ひしかわもろのぶ)は保田に生まれ、父のもとで、家業の縫箔(ぬいはく)業を習ううちに、絵が好きな少年へ成長します。のちに江戸へ出て、新たな絵画「浮世絵」を描き始め、江戸の人々に絶大な支持を得ていきます。
大成した師宣は、自身で絵本の序文(じょぶん)などにこう書いています。「私は幼いころから絵が好きで、中国や日本の古い絵画を集めて、それを写しては画技を磨(みが)いたものです。」
師宣には絵の先生はいませんでした。すべて独学で様々(さまざま)な絵の流派を描くまでに成長していくのです。古くからの日本の絵画の主流は狩野派(かのうは)、土佐派(とさは)というものでした。
師宣は浮世絵美人や江戸の行楽風俗を今風に描くことで人気絵師となりますが、その根底には、しっかりとした日本の絵画、いわゆる「大和絵(やまとえ)」の技法を身につけていたのです。
鋸南町に唯一(ゆいいつ)残されていた師宣の肉筆画があります。天に駆(か)け上っていく龍の姿を描いた「昇(のぼ)り龍(りゅう)図」です。およそ浮世絵とはかけ離れた水墨画による狩野派スタイルの龍の図です。
師宣の晩年、おそらく保田に帰ってきた時に筆をとったのかも知れません。さらに想像するなら、元禄元年(一六八八)が辰年(たつどし)でしたので、この時の正月に描いたかもしれません。師宣が亡くなるのは元禄七年(一六九四)です。
江戸で流行の浮世絵師として大成した師宣ですが、故郷に残したかったものは正当な絵画流派を描ける自身の腕だったのでしょうか。
今年は辰年です。菱川師宣記念館では、辰年の新春にふさわしく、菱川師宣の「昇り龍図」を展示しています。ぜひ師宣の絵師の腕を感じてみてはいかがでしょう。
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