■戦国動乱、妙本寺の運命4
房州逆乱で金谷城から脱出した日我(にちが)は、岩井周辺を転々とし、心身ともに打ちのめされた逆境下で執筆したのが、「いろは字」という書物です。これは、東西日本の様々な言葉や語句の読みや意味を記した、いわば辞書です。貴重な書物が焼失してしまった中、多くの門徒や宗門修行者への教化普及のため、日我は心をくだきました。また「一流相伝大事私」など上人として弟子たちに伝えおくべき大事を、書き残しました。こうして日我は、動乱の中、妙本寺の教えを残すことに心血を注いだのです。
その後、里見義堯(よしたか)は、上杉、武田など戦国群雄とも関係を持ち、北条を牽制(けんせい)しつつ、勢力を拡大、久留里城まで進出しました。日我は、里見義堯とはもちろん、義堯の奥方とも親密な付き合いを続けました。
永禄十一年(一五六八)義堯の奥方が亡くなった際には、「正蓮(しょうれん)」という法名を贈り、石塔を建て、妙本寺で法要を行っています。奥方もたいへん信心深く、その手紙を、日我は終生大事にしていたそうです。
天正二年(一五七四)六月一日、里見義堯は亡くなりました。六十八歳でした。日我は、奥方と同じように義堯に「唯我(ゆいが)」という法名を送り、出会いから四十年以上におよぶ御重恩に報いるため、百日間の法要を行っています。義堯は生前、禅宗を改めることはありませんでしたが、日我にとって、義堯は法華信仰の上で、深くつながっていると感じていました。だからこそ、日蓮宗の法名、法要で送りたかったのでしょう。日我は、この時の記録を「唯我尊霊百日記」としてまとめました。
保田の石工に「唯我」の石塔を造らせ、「正蓮」の石塔と一緒に並べて、妙本寺裏の御石山(ごいしやま)の峰に建て、日々供養したそうです。法要の日々の中、中秋の名月を見て、こんな句を詠(よ)んでいます。「へだつとも 心のそらに照る月の ひかりは同じ ながめなるらん」。その後、日我は義堯の一回忌、三回忌、十三回忌まで法要を行っています。
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