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歴史資料館 連載三九二

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千葉県鋸南町

■保田小学校校歌
保田小学校校歌

真白き雲をいただきて
安房の山々たつ中に
いとも雄々しき姿して
鋸山ぞそびえたる

はためく帆影連ねつつ
沖へいでゆく舟人の
海の幸得てこぎかえる
保田の港に波涼し

輝く空のもとにして
学びの庭の楽しさよ
山は養う我が心
海は育む我が望み

保田小学校は平成二十六年三月に、百二十六年の歴史とともに閉校しました。現在は道の駅保田小学校として生まれ変わり、多くの人々が交流する施設となっています。
保田小学校の校歌は、昭和二十八年頃作られました。保田の美しい情景を歌い上げたすばらしい詩です。そして他の一般的な校歌にない珍しい特徴は、保田小学校という学校名を入れていないということです。この校歌を作詩したのは、水原秋桜子(みずはらしゅうおうし)という俳人です。
秋桜子は東京の医師の家に生まれ、医師になるかたわら、俳句にひかれ、高浜虚子(たかはまきょし)に師事し「ホトトギス」の同人となり活躍しました。その後、「馬酔木(あしび)」を主宰(しゅさい)し、客観的な写生ではなく、細やかな感情表現を取り入れた俳句で、昭和初期を代表する俳人となっていきます。
そんな日本の俳句界の超一流の俳人が、どうして安房の田舎の保田小学校の校歌を作詩したのか。それは保田の自治・教育・文化発展に尽くした伊丹信太郎(いたみしんたろう)という人物との交流から生まれました。
伊丹信太郎は、東京の骨董(こっとう)商の家に生まれ、古美術、茶の湯、俳句に通じた文化人で、昭和十七年、戦禍を避けて保田に移り住みました。そんな信太郎と秋桜子を結びつけたのが俳句でした。(つづく)

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