■戦国動乱、妙本寺の運命
天文二年(一五三三)、父実堯(さねたか)を討(う)たれた里見義堯(よしたか)は、上総(かずさ)の百首(ひゃくしゅ)(竹岡)に逃れ、相模(さがみ)の北条氏に援軍を頼みました。北条氏綱(うじつな)は里見家につけいる好機とばかり承諾(しょうだく)します。一方、当主である里見義豊(よしとよ)は、妙本寺へ進軍し手中に収め、ここで迎え撃ちます。里見家内紛の初戦の決戦場となったのが、妙本寺の戦いでした。
山本太郎左衛門率いる北条水軍が妙本寺へ攻め寄せます。多勢に無勢、義豊は防ぎきれず徐々(じょじょ)に後退(こうたい)していきます。そして、義豊方は敗れ、義豊は真里谷武田(まりやつたけだ)氏を頼って上総へと落ちていきました。
勝利した義堯は、里見家当主の座につきます。本来なら直系ではなかった義堯ですが、この内紛により彼は表舞台に立つことになります。のちに里見家を最大の勢力範囲へと拡大し、北条、上杉、武田ら群雄と渡り合った房総の雄(ゆう)が、この里見義堯です。
一年後、勢力を挽回(ばんかい)した義豊は、安房へ進攻、義堯は犬掛(いぬがけ)(南房総市)で迎え撃ちました。がすでに勝敗は明らかでした。この犬掛合戦で義豊は討ち死にしました。
北条氏の援軍で勝利したということは、北条氏からの援軍要請(ようせい)が来れば従(したが)うのは当然です。天文四年(一五三五)十月、北条氏の要請で、義堯は正木時茂(まさきときしげ)、時忠(ときただ)兄弟の軍を保田浦から対岸へ出兵させ、自身も見送りのため保田観音寺に宿営しました。
義堯はこの時、二十九歳。武勇だけでなく、学識(がくしき)も優れた人物であったようで、自身の宗教観も持っていたようです。この時、義堯は妙本寺へ足を運びます。かつて、父実堯が駐屯(ちゅうとん)していたというだけでなく、日蓮宗の名刹(めいさつ)である妙本寺とは、いかなる存在なのか問(と)うてみたい。義堯自身が興味(きょうみ)を抱いたことからでしょう。
一方、この時、妙本寺には、戦乱の爪痕(つめあと)から復旧すべく、九州日向(ひゅうが)(宮崎県)から僧侶門徒の期待を受けて本山妙本寺に上がった俊英(しゅんえい)なる若き僧がいました。日我(にちが)、二十八歳。まだ住職になる前の代官職でした。
里見義堯と日我、年頃を同じくする二人は妙本寺で対面します。この出会いにより妙本寺の運命が大きく回り始めていきます。(つづく)
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