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歴史資料館 連載三九三

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千葉県鋸南町

■保田小学校校歌2
昭和十七年(一九四二)東京から保田に移住した伊丹信太郎(いたみしんたろう)は、実に多彩な人でした。骨董(こっとう)、茶の湯、俳句(はいく)だけでなく、考古学にも博識(はくしき)で、実は田子台(たごだい)遺跡を発見したのも彼でした。遺跡発掘にもたずさわりました。
また地域の様々な委員も歴任しました。民生委員、保護司、人権擁護委員、文化財保護委員、県史編纂委員、農協理事、土地評価委員など、数えてもきりがないほどです。
昭和二十七年には、保田町の教育委員となり、教育委員長を務めました。
俳人としての伊丹信太郎は「丈蘭(じょうらん)」と号し、高浜虚子(たかはまきょし)や水原秋桜子(みずはらしゅうおうし)に師事し、「馬酔木(あしび)」の同人となり、保田では、「保田かもめ俳句会」を結成、私財を投じて俳句雑誌「かもめ」を発刊し、多くの門下生を教え、保田に俳句の風を吹き込みました。保田小学校や近隣の学校で子どもたちへの俳句教室を開いたりしていました。
「馬酔木」は、水原秋桜子が主催した俳句雑誌で、広く活動を展開していた中で、房州の「馬酔木」同人の中心的人物だった伊丹信太郎と秋桜子は深い関係となっていきました。
昭和二十二年、信太郎により「安房馬酔木会」が結成され、館山で俳句大会が開かれた時、秋桜子はかけつけ、その帰りには保田の伊丹家に逗留しています。
より親密になった信太郎と秋桜子。そして地域の保田小学校で子どもたちに俳句を教え続け、昭和二十七年には町の教育委員長となった信太郎。保田小学校校歌は、これまでにない新しいものを作りたいと願ったであろう彼が、ぜひ秋桜子に依頼したいと思ったのは自然の成り行きだったでしょう。
伊丹信太郎丈蘭は昭和三十七年に七十三歳で亡くなりました。この年、鋸山日本寺境内に、丈蘭の「冬すみれ 巌(いわお)が岩を 噛(か)み支(ささ)え」の句碑が、鋸南町教育委員会、かもめ俳句会らによって建てられました。

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