文字サイズ
自治体の皆さまへ

ちょうなん歴史夜話

30/40

千葉県長南町

■長南開拓記(56)
~房総の国造たち(2)~
現在の千葉県域の中で、旧下総国にあたる地域には、三つの国造の名が見えます。まず、下海上(しもつうなかみ)国造は香取~海匝地方を支配域としていましたが、ここは当時の常陸~下総国境にあった香取海の出入口を抑える地域でした。この地域を代表する古墳としては、五世紀に築造された三ノ分目(こんのわけめ)大塚山古墳がありますが、この古墳は千葉県では屈指の規模を誇ります。当時は墳頂から穏やかな香取海を望めましたが、この内海は古代より交易の舞台でした。下海上国造はこの交易網を制する実力者の一人として、君臨していたと思われます。同じ香取海沿岸の国造でも、印波国造は違った性格を持っていたと思われます。この国造が支配域としていた印旛地方は、古墳時代の前~中期には大型の前方後円墳の存在が確認できない地域でしたが、後期になるとに突如として有力古墳が築造されるようになります。その状況は先月話した武社国造の支配域とよく似ており、おそらくは、印波国造も畿内政権の政策的な意図によって、房総の地に新興勢力として登場した可能性が考えられます。
千葉郡(現千葉市)を拠点としていたとされる千葉国造は、『古事記』や『日本書紀』、『国造本紀』に記載がありませんが、なぜか『日本後記』の延暦十七年(八〇五)、大同元年(八〇六)の条に記載があります。そのため、千葉国造は国造制が廃止された大化の改新以降に、主に祭祀を司る役職として任じられた「律令国造」であったとする説があります。ただし、大化の改新に伴う地方の再編による千葉郡の新設に伴い、千葉国造も新設されたとする説と、千葉国造は大化の改新以前から存在していて、律令制移行後もそのまま国造として名乗ることが許されたとする説があり、どちらの説が真相に近いのかはわかっていません。ただ、千葉市域は他の国造の支配域のような有力古墳がない地域です。正確には千葉市南部には有力古墳が存在するのですが、この一帯は、前回話した菊麻国造の支配域であった可能性があるため、古墳時代における千葉国造の存在感が弱いことは否めません。

三ノ分目大塚山古墳(香取市)から利根川方向を望む。住宅の背後に水田が見えているが、古墳や住宅は砂州の上にあり、広大な水田はかつての香取海の跡である。
※写真は本紙をご覧ください
(町資料館 風間俊人)

<この記事についてアンケートにご協力ください。>

〒107-0052 東京都港区赤坂2丁目9番11号 オリックス赤坂2丁目ビル

市区町村の広報紙をネットやスマホで マイ広報紙

MENU