■長南開拓記(57)~ヤマト王権の混乱と屯倉~
長生~夷隅地方を支配域としていたとされる伊甚(いじみ)国造には、『日本書紀』の安閑天皇元年(五三四)の条に記述が見られます。「夏四月、内膳卿膳臣大麻呂(かしわでのきみかしわでのおみおおまろ)が、天皇の命により伊甚国造直稚子(あたいわくご)の下へ使者を遣わし、アワビから採れる天然の真珠の献上を求めた。しかし、その献上が大幅に遅れ、ようやく京に参上した直稚子は、大麻呂に捕らえられてしまう。驚いた稚子は何とか逃走し、宮中の一角に隠れたが、そこは春日皇后の寝殿であり、稚子がいることを知らずに入った皇后が驚いて失神してしまう。さらに罪が重くなった稚子は贖罪として、支配地の一部を、皇后の屯倉(みやけ)(王権の直轄地)としての献上を願い出て、それが伊甚屯倉(いじみのみやけ)となった。」というものです。また、『日本三大実録』の貞観九年(八六七)の記事に見える「上総国夷灊郡春部直黒主売(かすかべのあたいくろぬしめ)」は、春日皇后に仕える部民であった「春日部」の子孫と考えられ、『日本書紀』の屯倉の記述が何らかの史実に基づいていることを示す、との指摘があります。記紀や『風土記』には、第十一代垂仁天皇から第三十六代孝徳天皇までに屯倉設置の記事が見られますが、その中でも突出して多く、場所も関東~九州と広範囲に及ぶのが、第二十七代安閑天皇です。ただし、安閑帝の在位はわずか四年であることから、何らかの理由により、屯倉の設置が強行されたようにも見えます。その安閑帝の父で先代の継体天皇は、それまでの歴代天皇とは異なる傍系の出自とされており、即位の十九年後にようやく大和に入るなど、ヤマト王権内部の掌握にかなりてこずった様子が見られます。また、九州の筑紫地方で磐井の乱が発生するなど、地方の情勢も不安定であり、後継の安閑帝としては、地方の掌握を急ぐ必要があり、そのために屯倉の設置を強行した可能性があります。
屯倉は大化の改新で廃止されますが、『日本書紀』には「今別れて郡となり、上総国に属す」とあり、「伊甚屯倉だった地域が分かれて複数の郡になった」とも読めます。そうであれば、伊甚屯倉は夷隅郡だけでなく、隣接する埴生郡・長柄郡の一部も含んでいた可能性が考えられます。
◇辛亥銘鉄剣で知られる稲荷山古墳(埼玉県行田市)。大多喜町の台古墳群からは、この稲荷山出土品と同じ型で作られた銅鏡が出土しているが、鏡はヤマト王権から直接下されたと考えられ、持主は伊甚国造の有力候補とみられる。
(町資料館 風間俊人)
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