文字サイズ
自治体の皆さまへ

ちょうなん歴史夜話

38/48

千葉県長南町

■長南開拓記(54) ~「北」へ続く道~
前回話したように、長生地方では六世紀後半に非高壇式の横穴墓が導入され、七世紀前葉に高壇式の横穴墓が導入されたと思われます。そして、当地方では圧倒的に高壇式が多く見つかっていることから、高壇式導入以降に横穴墓の築造数が激増したと考えられます。このように中小規模の高塚古墳や横穴墓からなる「群集墳」出現の背景には、地域人口の増加、特に他地域からの流入が考えられることは、すでに話したとおりです。そもそも首長墓に比べて規模が格段に小さいとはいえ、「群集墳」の築造には、それなりの労力を要し、それだけの労力をかけて築造した墳墓に葬られる人物は、やはり、それに見合う地位を備えた存在であり、それぞれの集団の上位にいる人々であったと思われます。また、古墳時代後期~終末期という時代は、「飛鳥時代」と時期的に重なっており、ヤマト王権によるシステマティックな支配体制ができあがっていたと考えられます。群集墳の被葬者や、彼らが率いる集団も、ヤマト王権を頂点とした支配体制の中に組み込まれ、その地域間の移動も、政治的意図の下に行われていた可能性が考えられるのです。
さて、当時のヤマト王権にとって関東、特に房総はどのような場所として見られていたのでしょうか。この時代、ヤマト王権の支配は東北地方全体には及んでおらず、その最前線は東北南部にあって、房総半島は地理的に最前線への連絡線上に位置して板と考えられます。現在の利根川下流域には、当時「香取海(かとりのうみ)」という広大な内海がありましたが、香取海は北へ向かう重要な交通路であり、ヤマト王権としては、最前線の後方を固め、また中継拠点とするため、この地域を掌握しておく必要があったと考えられます。香取海の南側に位置する印旛地方や山武地方北部では、この時期になって突如として大型古墳や群集墳が出現しており、こうしたことに深く関係していたと考えられます。また、この香取海の両岸に鎮座する鹿島神宮と香取神宮は、どちらも軍神を祭神として祀っており、このことも象徴的な事象であると言えます。

鹿島神宮拝殿。鹿島と香取は香取海を挟んで「対」の関係にあり、古代よりヤマト王権の東国経営に大きく関係していたとされる。また、鹿島の社殿は正面が北を向いており、東北地方を意識した配置と言われている。
※写真は本紙をご覧ください

(町資料館 風間俊人)

<この記事についてアンケートにご協力ください。>

〒107-0052 東京都港区赤坂2丁目9番11号 オリックス赤坂2丁目ビル

市区町村の広報紙をネットやスマホで マイ広報紙

MENU