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ちょうなん歴史夜話

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千葉県長南町

■長南開拓記(55)~房総の国造たち(1)~
古代日本の地方における職制である「国造」(くにのみやつこ/こくぞう)とは、地方豪族がヤマト王権によって「国造」に任じられることで、王権の機構に組み込まれますが、その地方の支配権が保障される制度であったとされます。『古事記』や『日本書紀』に記載がある職制であり、実際の成立や地方への拡大の時期は確定できないものの、少なくとも古墳時代後期には、東国にもこの制度が波及していたと考えられています。
古墳後期の房総には十一の国造が置かれていたとされています。地域別に見ると、上総東京湾側には、菊麻(きくま)国造(千葉市南部~市原市北部)・上海上(かみつうなかみ)国造(市原市中南部)・馬来田(まくた)国造(袖ケ浦市~木更津市)・須恵(すえ)国造(君津市~富津市)と、河川流域ごとに国造が置かれるという、特異な状況を呈していました。この地域では、河川流域ごとに首長級勢力が成長してきたとみられ、前述の国造たちは基本的にその支配基盤を踏襲したと考えられます。ただし、古墳後期においては、この時期に巨大古墳が相次いで造営された内裏塚古墳群を擁する須恵国造や、畿内の古墳にも見劣りしない副葬品を誇る古墳を造営した馬来田国造が、より優位な存在であった可能性が高いと考えられます。
一方、上総太平洋側には武社(むさ)国造(山武市~芝山町~横芝光町)・伊甚(いじみ)国造(夷隅~長生)が置かれていました。武社国造の支配域は古墳後期になって複数の有力古墳が造営された新興地域であり、それには、前回話したように、ヤマト王権による東北地方への拡大政策が大きく関わっているとされます。『国造本紀』では、大王(おおきみ)の外戚だった和珥(わに)氏を武社国造としていますが、実際に王権に近い人物であった可能性があります。伊甚国造は夷隅川および一宮川流域を支配域にしていたと考えられています。この地域の支配基盤を踏襲した国造となれば、能満寺古墳や油殿一号墳の被葬者との繋がりが想起されますが、古墳中期以降、この地域には大型古墳が築造されていません。また、伊甚国造には『日本書紀』に興味深い記述があり、それは次回、触れてみたいと思います。

千葉県指定史跡になっている大堤権現塚古墳(山武市)は、墳丘長115mを図る前方後円墳であり、武社国造の支配域内にある有力古墳の一つ。墳丘を三重周溝で囲うという、全国的にも希少な構造で知られている。
※写真は本紙をご覧ください

(町資料館 風間俊人)

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