■長南開拓記(70)~「寺院建立」ラッシュ~
西暦六四五年の乙巳の変によって蘇我氏が倒されると、唐に倣った律令制による中央集権国家建設を目指す中大兄皇子らは、数々の改革を断行していきます。律令制下の地方の行政区分としては、国―郡―里を設ける「国郡里制」がよく知られています。しかし、それは大宝律令(七〇一年)で成立したもので、七世紀後半の段階では、後の郡に相当する行政単位として「評(こおり)」があったようです。「評」の設置は、国造たちの支配圏であった「クニ」を、律令制下の行政単位として再編する意味があったと思われます。また、造営できる陵墓の規模等を、身分によって規制した「薄葬令」も知られています。『日本書紀』によれば薄葬令は大化二年(六四六)に出されたとされ、その中では天皇の陵墓造営でさえ規模や日数に制限が設けられています。大化二年に薄葬令が出されたという『日本書紀』の記述は、編者による潤色の可能性も指摘されているものの、七世紀後半の房総では、前方後円墳の築造停止後に盛行した大型方墳の築造も停止したとみられるなど、「巨大古墳=権威の象徴」という古墳時代の根本的な価値観は、すでに過去のものになっていたと思われます。
衰退する古墳文化と入れ替わるように登場するのが仏教寺院です。先月取り上げた上総大寺廃寺(木更津市)を皮切りに、龍角寺(栄町)、名木廃寺(成田市)、木下別所廃寺(印西市)、八日市場大寺廃寺(匝瑳市)、木内廃寺(香取市)、真行寺廃寺(山武市)、今富廃寺(市原市)、二日市場廃寺(市原市)、九十九坊廃寺(君津市)、など、白鳳期の房総各地に次々と建立されていきます。これらの寺院は、「評督」として律令制下の行政区分の長となった国造など、地方の有力者層が主体的に建立に関わっていたと考えられます。
長生地域にはこの時期の寺院跡は見つかっていません。しかし、一宮町・睦沢町に近接する旧岬町岩熊地区で白鳳期の瓦が見つかっており、この地に「岩熊廃寺」が存在したと考えられています。部分的な発掘調査も行われましたが、残念ながら、この時期の伽藍跡を見つけることはできませんでした。
龍角寺は県内で上総大寺廃寺に次いで古いとされる寺院。写真は創建時にあったとみられる塔の心柱を支えた「心礎」で、塔は三重塔であったと想定されている。
※写真は本紙をご覧ください
(町資料館 風間俊人)
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