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ちょうなん歴史夜話

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千葉県長南町

■長南開拓記(60)~どこから来たの?~
房総では六世紀後半頃から急激な人口増加があったと考えられることを、以前話しました。そして、長南町を含む長生地域も同時期に人口増があったと思われます。長生地域の人口増の根拠になっているのが、六世紀後半に登場し、七世紀に爆発的な勢いで築造された横穴墓です。そうなると、(1)横穴墓は誰が、どこから持ち込んだのか、(2)七世紀に人口が急増した理由は何か、彼らはどこからやって来たのか、というところが問題になると思います。
以前『日本書紀』の安閑天皇元(五三一)年の記事として、伊甚国造のアワビ献上をめぐる失態と、ペナルティとしての伊甚屯倉(ヤマト王権の直轄地)設置の記事について話しました。伊甚国造の実在性は確実ではないものの、夷隅地域への屯倉設置の史実性が高く、それが長生地域にも及んでいた可能性があることにも触れました。伊甚屯倉の記事は、政権安定化のためヤマト王権が積極的に地方支配の強化を図っていた状況を比喩しており、そうした状況下では、多くの人がこの地域に流入していたはずで、それが横穴墓という新しい墓制が持ち込まれる契機となった可能性が考えられます。特に上総での初現期の横穴墓は大阪南部に分布する「河内型」に類似するとされており、そこに畿内との強い人的繋がりが見えてきます。
一方、初現期の横穴墓が見つかっている米満の丘陵尾根には、人工的な土盛りと見られる遺構が点々と続いており、当初、これらは村境を示す近世に築造された塚と考えられていました。しかし、発掘調査による出土遺物や、斜面の横穴墓との位置関係の検討によって、古墳時代の遺構も含まれていることが判明したのです。横穴墓は古墳の横穴式石室から派生したと以前話しましたが、北部九州や出雲では、横穴墓がある丘陵上に「墳丘」が築かれる事例が知られています。房総に横穴墓が伝播したときには、すでに「墳丘」は消失していたと考えられていたのですが、墳丘構築という、北部九州や出雲の要素が伝播されていることから、これら地方との関係も考慮すべきかもしれません。

米満の丘陵上の塚群。米満の調査以前から、「埋葬施設がない謎の古墳」の存在は言われていたが、米満の調査で横穴墓の墳丘であることが確定し、以後の横穴墓の調査方法に一石を投じることとなった。
※写真は本紙をご覧ください
(町資料館 風間俊人)

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