■長南開拓記(63)
~ムラはいずこに(2)~
長生地域の丘陵地帯における現在の集落は、丘陵裾部に民家が点在する形で形成されています。『長柄町史』によると、「(古墳時代においても)谷間状の狭小な平地は現在と同じく水田としても利用されたものと考えてよい。その居住地も現在と同じようにまとまった集落の形態を構成しないで、山麓に点在したものであろう。」とした上で、「居住する地域の周辺、ことにその裏山を(横穴墓造営の場所として)利用することが最も自然な方法であったということである。」と記述しています。居住域や墓域の場所選定は、その地域の地形に大きく左右されることは、妥当な考えであり、また、現代の集落と重複していることで、当時の集落跡が発見され難くなっている、という説明にもなっています。ただし、すべてその理解で収まるのかと言えば、必ずしもそうではないと思われます。
米満横穴墓群は、須田~米満の三途川左岸側の丘陵斜面に展開し、現在まで百四十基を確認していますが、これは県内でも最大級と言える規模であり、これほどの墓群となると、その母体集落も墓群に見合う規模であったと思われます。その米満横穴墓群から稜線を越えた反対側の本台地区には、丘陵の先端付近に段丘上の地形があって、その畑地部分には古墳時代と見られる土器破片が濃密に散らばっています。ここは面積も広く、規模が大きい集落跡の存在が考え得る立地です。また、隣の今泉地区では古墳時代後期の集落跡が発掘調査されていますが、調査地点は段丘状地形の端部であり、集落はさらに広がっていた可能性があります。つまり、本台・今泉には古墳後期の大規模な居住区域が存在し、その墓域として米満横穴墓群が造営された、ということも考えられます。ただ、それなら本台・今泉側の斜面でなく、稜線を越えた米満側を墓域としたなぜか。全国的な傾向として、横穴墓の出入口を北に向けることは忌避されていましたが、その点で稜線北側の本台・今泉側は横穴墓群の造営に制約が大きかったことは確かです。対して南向き斜面であり、稜線下に急崖が続く米満は、好条件を備えていたと言えます。
本台地区の実法遺跡(道路右側の小高い丘)遠景。未調査ではあるが、古代集落の立地として好条件を備えており、谷を挟んで隣接する今泉遺跡以上の規模の集落跡が眠っている可能性がある。
※写真は本紙をご覧ください
(町資料館 風間俊人)
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